Cufflinks
第一話・焔 第五章・3
二十五日の午後、春樹を乗せたタクシーが都内のホテルに到着した。
高岡がプライベートで使うホテルとのことで、今までに客と利用したところよりも小さい。
車寄せに降り立った春樹が薄曇りの空を見上げる。天女の羽衣を思わせる雲がたなびいていた。
フロントを素通りしてエレベーターに乗る。稲見から伝えられた部屋の階を押し、カフスボタンの黒石に触った。
ブラックオニキスがしっかりしろときらめく。腹の底に力を入れ、魔除けの石に口づけた。
六階の一室で呼び鈴を押す。ドアが薄く開き、灰色の瞳に見下ろされた。
高岡が着る三つ揃えは初めて見るものだった。この日のために新調するわけはないのに見惚れてしまう。
「入って左、ベッドの脇に鏡台がある。服は脱がずに鏡の前に立て」
「はい」
ドアを押さえる高岡の横を通るとき、いつもの香りがした。この香りも近くで嗅げるのは最後かもしれない。そう思うと、足がとまりそうになる。
(断ち切れ。気持ちを切ってしまわないと、先に進めない)
後ろを見ずに進み、ベッドの手前に到達した。高岡が言ったとおり鏡台がある。ダークブラウンの台に、縁飾りが施された三面鏡が乗っている。木目と細かな装飾が美しい。観音開きになっている鏡の前に立ち、自分の姿を見てみた。
自信のない顔をした男娼が立っている。明るいグレーのスーツに白のシャツが華やかだ。
シャツのボタンは黒蝶貝で、ブラックオニキスが飾る袖口を浮かせていない。アスコットタイには遊び心がある。
服に着られているのだろうか。さ迷う視線を落ち着かせたくて、深く呼吸した。
音がして目を上げる。高岡が革張りのパンフレットを鏡台に置いていた。ルームサービスのメニューのようだ。
「二時間後にはチェックアウトする。飲みものが欲しければ自由に選べ」
今日の高岡は調教師ではない。自分の予定を告げ、相手に発言権を与えている。
これは接待仕事だと再認識させているのだ。
「……ひとつお願いがあります」
「言ってみろ」
高岡が壁にもたれて腕組みした。春樹は心に決めていた望みを言った。
「今日は何も飲みたくありません」
高岡の眉尻が上がった。狼そっくりの目に射貫かれる。春樹はあごを引き、きつい眼光から目をそらさない。
「体を冷ますもの抜きで、あなたと過ごしたいです」
ふたりの意思が交錯する。救済のロープを投げ入れたのは高岡だった。
「重ねて言うが、部屋を出るのは二時間後だ。車を用意するつもりはない。ひとりで帰る自信があるのか」
「あります」
じっとこちらを見ていた高岡が壁から離れる。無言で春樹の背後に立ち、二の腕を外側からつかんできた。
拘束に似た行為が妖しく、春樹の目もとが染まる。
「いいだろう。お前の要望、確かに受け入れた」
二の腕をつかんでいる手が下りていく。驚かせないような、それでいて逃がしはしないという触れ方だ。
こんなふうに触れられたことはない。合意だと言われた最初のときも、もっとビジネスライクだった。
高岡が春樹の手首をとる。淑女にするようにうやうやしく持ち上げ、耳の後ろに甘く唇を寄せる。身をよじりそうになると、耳朶を軽く噛まれた。少し低い声がささやく。
「良いつくりの品物だな。背伸びしたのか?」
肌と髪をくすぐるように訊いた男は、春樹のカフスボタンを外しにかかった。
「背伸びじゃ……ありません」
魔除けの石の金具が動く。高岡にとってカフスボタンは身近なアクセサリーだ。扱いなれているから片手でも外せるだろうに、両手で丁寧に取り外した。片方を外し、もう一方も同じように取り去る。
「今日のお客様にふさわしい姿をと考えました」
「なるほど。オウム返しに答えないところは悪くない」
黒く輝く石が鏡台に置かれた。肩をつかまれて向かい合わせになる。
目を閉じろもなく、唇に熱が重なった。
煙草の香りに酔っていく。舌が優しく絡み、春樹は頬を燃やして高岡の胸に指を這わせた。音をたてて唇が離れる。
「シャワーを使いたいか」
唾液で濡れた唇を高岡の指が撫でる。春樹は吐息を漏らし、客である高岡を見つめる。
「いいえ……」
「何故だ」
春樹は高岡の目を見て答えた。
「あなたは僕の特別な人です。一秒たりとも離れたくありません」
茶灰色の瞳が春樹を注視する。この願望が春樹のものであるのか、客を想う男娼のものであるのか推し量っている。
高岡が目を伏せ、春樹の顔を両手で包み込んだ。二度目のキスは唇が触れただけだった。
黒蝶貝のボタンを外していく高岡の指を、三面鏡に映る春樹が潤んだ目で追う。タイが抜かれ、シャツが落ち、素肌があらわになっていく。春樹は高岡の襟をなぞり、ネクタイの結び目に指をかける。
華麗な装飾で縁取られた三枚の鏡に、終わりの時刻に突き進んでいくふたりが映り込んだ。
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