Cufflinks
第一話・焔 第五章・3
「あの……喉、渇いてませんか?」
院内の売店で買った水のペットボトルを出し、蓋を開けた。矢田に渡そうとしてわざと椅子の脚につまずく。
蓋のないペットボトルが肌布団に落ちた。
「ごめんなさいっ!」
別の椅子を広げようとしていた稲見が目を丸くする。矢田も口を半開きにした。冗談だろ、という顔だ。
「きみねえ。見舞う側が迷惑かけてどうするの」
呆れ顔の稲見が倒れたペットボトルをサイドボードに置く。矢田は疎ましげな視線をそらしもしない。
「ごっ、ごめんなさい。どうしましょう。か、看護師さん、呼んだほうが」
おろおろとナースコールを探す春樹の肩に、稲見の手が置かれた。
「こんなことで呼ぶものじゃないよ。きみはここにいなさい」
稲見は水で濡れた肌掛けを隅に寄せた。収納棚から毛布を出し、矢田の腹にかけて出ていく。
矢田が大きなため息をつく。春樹はかまわず、怪我人に声をかけた。
「体、痛いですか」
「ああ。あの社員が戻ったら、とっとと帰ってくれ」
「わかりました」
落ち着き払って答えたからだろう、矢田が怪訝な顔をする。春樹はベッドを囲うカーテンを素早く引いた。
「なんだ。何をする」
春樹は矢田に背を向けた。シャツのボタンを外し、肩先からシャツを滑らせる。
背中に残る鞭傷を見た矢田が息をのんだ。
「三浦勇一に打たれた痕です。三か月経つけど消えません」
矢田に向きなおってボタンをかける。矢田が毛布を握りしめ、白い手の甲に筋ができた。
「だからどうした! 同病相憐れむか?!」
大声を出さないように、春樹は自分の口の前で人差し指を立てた。
「退院しても三浦と会ってはだめです。僕は三浦に四年間監禁された人を見たことがある。檻に入れられていて、字も書けませんでした。三浦の仕業かはわからないけれど、喉が潰されてしゃべれませんでした」
襟を正した春樹がベッドのカーテンを開けていく。
「二度助かったからって、三浦と会わないで。幸運は無限じゃない」
矢田が目を眇める。憎悪と侮蔑が混在する、暗い笑みを浮かべた。
「なるほどな。偉いさんの考えそうなことだ」
美貌の青年が何を言おうとしているか察しがついた。だが、問い返しはしない。
片膝を立てた矢田が低く笑う。
「俺が事故の詳細を話さないから三文芝居か。水をこぼして社員が離れる。ガキになら俺も気を許すと思ったわけだ」
春樹はカーテンを開ける手をとめた。矢田の顔を真正面から見据える。
「これは企みではありません。僕は自分の意思で来たんです」
「信じろって言うのか。せこい手使いやがって」
「僕を信じないのはいい。でも、稲見さんは違う。芝居を打つ人じゃありません」
矢田の手が乱暴に毛布をはいだ。
「うるせえな! 社に誠意やら同情やらがあるなら、もっと」
上半身を乗り出そうとした矢田が顔をしかめた。春樹が矢田を支える。
痛みをこらえる矢田の手をこじ開け、小さくたたんだメモ用紙を握り込ませた。
「僕の携帯番号です。退院したら電話してください」
眉をひそめる矢田を尻目に、カーテンをもとの位置に戻す。
「電話、待ってます」
廊下から足音がした。矢田がメモをサイドボードの引き出しに入れる。
ノックのあと、看護師とは違う制服を着た女性と、稲見が入室してきた。女性はきれいな肌布団とシーツを抱えている。
稲見は春樹の背中を押しつつ、矢田に手を振った。
「騒々しくてすまなかったね。少しは気分転換になったかな」
ソファに移動した矢田は一礼するだけだ。
稲見が静かに引き戸を開ける。膝の上で両手を組む矢田が窓の向こうを見つめる。
厚い雲を追う眼差しは、黒い嵐の襲来に備えているように思えた。
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