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第一話・焔 第五章・3


 翌日。
 試着室から出てきた春樹は、壬に言われるまま店内のソファに腰を下ろした。えんじ色の革張りソファに、服と一緒にカフスボタンが入ったケースが乗っている。「イマイチだなあ」と言った壬は従業員用の控え室に入っていた。
 春樹はソファの後ろにある窓から外を見た。昼下がりでも薄暗く、雨になりそうな曇天なので陽が射さない。
「ちょっと高いけど、これかな」
 壬が春樹の横に腰掛ける。ビロードの小箱を開け、ソファに掛けておいた白いシャツの袖口にあてがった。
 真っ黒で丸い石が袖を引き締める。ダイヤのようにカットされた黒い石がきれいだ。シンプルな金具との調和もとれていて、小振りなのに存在感がある。宝飾品という言葉が合いそうなつくりだった。
「華奢な見た目だけど丈夫で使いやすいよ。出来のいいものじゃないと売らない工房だから値が張るのが玉に瑕かな。品質は二重丸」
 顔をほころばせる壬と目が合った。墨より黒い瞳を凝視しそうになり、カフスボタンに視線を戻す。
「この石は何ですか? 黒いのに、すごくきれい」
「ブラックオニキス。魔除けの石とも呼ばれてるね」
「魔除けの石……」
 カフスボタンをおさめた小箱が春樹の手に渡る。箱の内側は白の布張りで、石とのコントラストが冴え冴えとしていた。何かを見通すような光が高岡のカフスボタンを連想させる。
「これ下さい。これにします」
 微笑む壬が立ち上がった。服と小箱を持ってレジカウンターに向かう。
「夏休みなんだよね、少しくらい時間あるでしょ? お茶飲んでかない?」
 気さくな調子につられて了承しそうになった。壬は勘がいい。これまでも何度か真実を見抜かれている。
 高岡への思慕を悟られてはならない。春樹は首を横に振った。
「ごめんなさい。二学期の予習しなきゃいけないから」
「そうなんだ。お相手のこと聞かせてもらおうと思ったのにな」
「お相手……?」
 壬が服をたたむ手をとめる。眼鏡を外してこちらを見た。
「好きな人とのデート用じゃないの? 隠しポケット要らないって言うし、胸がどきどきしてたみたいだから」
 特別な客として高岡を接待しろと言われたのだ。春樹の特別な客は塔崎であり、塔崎と会う服には細工しない。
 表面では同じにしていたつもりだが、平常心でいられなかったようだ。やはりこの店主は鋭い。
 魔除けの石に似た、真っ黒な瞳に見据えられる。
「ねえ。ポケット、本当に要らないんだよね」
 ひるむな。商品が些細な嘘もつけないとなれば高岡の恥になる。
「要りません」
「本当に?」
「本当です。好きな人のための服です」
 言い切ってしまえば肝が据わる。カウンター越しに壬を見つめ返し、きっぱりと言い放った。
「好きな人の前でしか着ないと決めて、ここに来たんです。壬さんの服は着心地がよくて、素直な自分でいられるから」
 数秒後、小さなため息と共に壬が目を伏せた。まいった、というように一度うなずく。
「そう言われちゃうとね。着心地がいいっていうの、弱いんだなあ」
「本当のことです」
 壬は穏やかに笑い、服を半透明の紙で包んだ。カフスボタンの小箱と一緒に袋に入れる。空模様を考えてか、店名が印刷された紙袋はビニールのカバーで保護された。春樹に袋を渡す壬が中庭を指す。
「ちょっとだけ庭に出ない? 立ち入ったこと訊いたお詫び、させてほしい」
「お詫びなんていいです。何とも思ってませんから」
「いいから」
 人懐こい笑顔の壬に手を引かれる。庭の隅まで来て、春樹は自分から歩み出た。
「シバザクラ……!」
 塀の内側に小さな石垣が二段組まれている。その下段を、濃いピンク色のシバザクラが覆っていた。
 高岡に手を入れられた翌日、この石垣にはたくさんのシバザクラが咲いていた。手をつないで陣地を広げるように咲く春の花を見せたくなり、ベンチに座っていた高岡の手を引いてきた。高岡は幼稚だと言わずに花を見たのだ。
 壬が上半身をかがめる。猫でもじゃらすように、可愛い花弁をつついた。
「高岡と来たとき、ここを見てたでしょ。シバザクラ、好きなのかなと思って」
 春樹は無言でうなずく。しゃがんだ膝に服の袋を乗せ、壬の指が揺らす花たちを見る。
「仕入れで遠出したとき、国道沿いで苗や切り花売っててね。根付いたみたいでよかった」
 シバザクラの花期は終わっている。校庭のものは葉と茎だけになった。アルバイトをした花屋にも苗はなかった。
「きれいに咲いてる……僕が校庭に植えたの、もう咲いてません」
「園芸農家の出店だから、素人とは違うんじゃない」
 そういえば新田の祖父の家に行ったとき、ビニールハウスの前で花や野菜を売る露店のようなものをいくつか見た。園芸農家や野菜農家の出店なのだと、新田が教えてくれた。
「燃える恋、だったっけ」
 壬の言葉に春樹が顔を上げる。壬が着る花柄のシャツから、爽やかな香りがした。
「情熱的な花言葉だよね。可愛い花なのに」
「シバザクラの花言葉……調べたんですか?」
 壬が腰に手を当てて伸びをした。目を眇めて重い雲を見上げる。底のわからない黒い瞳が、強くなってきた風に押しやられる暗雲を追う。
「そ。ここをやるまで土いじりなんてしたことないし、勉強してるわけ。業者入れると厳しくて」
 春樹も静かに立ち上がる。いつ降ってもおかしくない、土が湿るにおいがした。壬も「降りそうだねー」と言う。
「引きとめてごめんね。傘、持ってって。また来たときに返してくれればいいから」
 店の扉を開けようとする壬の手をつかんだ。黒い瞳が振り返る。
「花言葉は色々ありますよね。壬さんはどうして『燃える恋』を選んだんですか?」
 日本人形に似た瞳に、波乱の空が映り込む。
「恋は燃えているうちが花っていうじゃない。だからだよ」
「燃え尽きて……灰になったら……?」
「何? うまくいってないの、好きな人と」
「いいえ。壬さんなら、どうするかなって思って」
 壬はつかまれている手もそのままに、真顔で春樹に向きなおった。
「次の恋を探すかな」と言い、軽い感じで手をほどく。
「これが最後と決めた恋なら、灰をかき集めて墓まで持ってくけどね」
 真剣だった顔が、くしゃっと笑った。『臆病な心』より『燃える恋』を選ぶのが壬なのだろう。
 店に入ると壬が控え室から傘を取ってきた。
「貸したげる。デート、楽しむんだよ」
 春樹の手に傘の柄が握り込まされる。力強くても強引ではない、人の痛みを知る渡し方だった。


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