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第一話・焔 第五章・3


 自宅マンションに入るなり洗面所に飛び込んだ。塔崎の口臭がしなくなるまで口をすすぎ、冷たい水で顔を洗う。
 鏡で見る自分は、悔しさに唇をひん曲げる味噌っかすの男娼だった。
「く……そ……」
 塔崎は最後までしなかった。稲見に嘘をついてホテルに連れ込みもしなかった。
 仕事としては楽なものだ。茶や食事を共にするよりいい。拘束時間も短く、頭を使うような会話もなかったのだから。抱擁とキスで終わり、床にぶつけたところもさほど痛くはない。
 それならこの、胸糞悪さは何なのだろう。煮えくり返る腹の熱さは。
 自尊心を踏みにじられることなら嫌というほど経験した。口での奉仕も一度ではない。高岡には手を入れられた。三浦兄弟との夜を思い出すと、今も苦いものがせりあがる。
「くそ……! くそッ!!」
 何度塔崎の美点を探しても、容易くもぎ取られてしまう。好きになろうと努力してきた。ストーカー行為も許したし、盗聴器や隠しカメラを仕掛けられたことも社には言っていない。
 独り身の銀行家を責めたことなどない。この男になら囲われてもいいと、これが最善の策なのだと思おうとしたことが、間違っているというのか。強い者の力を借りる生き方は、ことごとく否定されるものなのか。

 『評価だよ。フリーランスの彼にとっては何よりの糧だ』

 流しっぱなしにしていた水をとめる。

 『九分どおり決まっているからこそ、会社もきみをここに案内したのじゃないかな』

 ふらふらと洗面所をあとにする。リビングを突っ切って寝室に入り、サイドテーブルから精神安定剤を出した。ロボットのような、機械じみた手つきで袋を逆さまにする。錠剤のシートがベッドに落ちた。
「家がどこだって……いいじゃないか」
 塔崎の気が変わって愛の巣に住めと言われたところで、たいして変わらない。十六年の思い出が残る部屋には住めずに、仮住まいの場がころころ変わる。追われるように移動する生活は、売春という罪を犯す者に似合いだ。
 銀色に光る薬のシートを見る。愚問に捕らえられていることがばかばかしくなってきた。
 二年と少し。たったそれだけのあいだ塔崎の寂しさを埋めれば援助が得られる。
 シートから錠剤を押し出そうとした春樹の手が、寝室の電話機が鳴る音にびくついた。
 居留守を使えという負の考えを、援助の二文字がいさめた。春樹は壁に手をついて受話器をとった。
「丹羽です」
 第一声から怒鳴ろうとしていたのか、稲見がしゃっくりに似た息をした。
「いたなら早く出てくれないと。出かけたのかと思ったよ」
「宿題のやり残しがないか、確かめてたんです。集中してたから聞こえなくて」
「いい心がけだね。ところで春樹くん、明後日の火曜日……二十五日だけど、空いてる? 空いてなければ別の日でもいいそうだけど」
 カレンダーを見る気はない。塔崎からの誘いに決まっている。
「空いてます」
「そう。じゃあ調整はいいね。明後日の午後二時、高岡さんと会ってほしい。ホテルは当日に連絡する」
 思考がとまった。聞き違えたのだろうか。
「た、高岡さんとホテルで会うんですか? どうして」

「特別なお客様として、高岡さんを接待してほしいからだよ」

 サイドテーブルとベッドを見てみたが、薬を飲んだ形跡はない。いよいよ頭がおかしくなったのかもしれない。
「もしもし。聞こえてる?」
「は……はい」
「彼のスタイルなんだよ。躾仕事の終わりが近づくと、こういった会い方をされるんだ」
 終わりと言っただろうか。よく聞こうと、受話器を耳に強く押し当てる。
「きみの評判がいいこともあって、彼には次の依頼がいくつかきている。卒業試験だと思って臨みなさい。送迎はないからひとりで行ってもらうけれど、いいね」
「はい……」
「ああそれと。矢田くんだけど、もう退院してるから。社もできる限りのことはするから、余計な心配をしてはだめだよ」
「はい────」
 気づいたら電話が切れていた。誰ともつながっていない受話器を置く。
 膝の力が抜け、ベッドに倒れこんだ。
 三十日が塔崎への返答期限。本当に引き渡す価値がある商品かどうか、最終チェックを兼ねているのだろう。
 やっと終われる。明後日の午後、ホテルで高岡を接待すれば、躾という名の暴力から解放される。
 恐れて憎んだ、心を乱す男への想いを断ち切れるのだ。
 身を起こし、寝室を漫然と眺める。安定剤が弱い心を誘った。
(一錠でいい。一錠、飲めば)
 シートを手にするのだけれど、薬が出せない。
 もしも……もしも明後日が高岡との最後なら、ちゃんとした格好で会わなければ。
 服も新しくしたい。壬に見立ててもらわないと。
 春樹はクリニックの処方薬をサイドテーブルにしまい、リビングへ向かった。


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