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第一話・焔 第五章・3
目的地は、塔崎が勤めるビルから車で五分とかからないところにあった。
それほど大きな建物ではない。エントランスホールは、以前住んでいたマンションより狭いくらいだ。
最初の自動ドアを通る。向かって左側の壁に埋め込み式のオートロック操作盤、右に縦長の郵便受けがあった。郵便受けの隣には、英語で新聞と書かれたガラスの扉がある。新聞受けが並ぶ小部屋になっているようだ。
「四、〇……」
稲見から教えられた部屋番号と、呼び出しボタンを押す。聞きなれない男の声が応答した。
『今枝です』
「……え?」
『上がってください。塔崎様がお待ちです』
「暑かったでしょう。入って」
頬を上気させる塔崎に迎えられた。入り際に盗み見た表札には、何も書かれていない。しきりと汗を拭く塔崎とリビングに進む。塔崎の弁護士である今枝は、カウンターキッチンでビジネスバッグを開けていた。前に会ったときと同じで姿勢がいい。春樹を見ても会釈ひとつせず、書類を確認している。
目をきらきらと輝かせた塔崎が、春樹をのぞき込んできた。
「春樹くんはどう思う? このお部屋」
「え……あ、いいお部屋だと思います」
嘘ではなかった。木の葉模様の壁紙が可愛い、小ぢんまりした部屋だと思う。エアコンは盛んに宣伝している最新型で、心地よい涼風を運ぶ。家具らしい家具がないことが気になるものの、部屋を悪く言う理由にはならない。
部屋を眺めていた春樹は不覚を取った。銀行家が春樹を抱き寄せる。
「あ、あの」
「ね……こっちへ来て。僕の会社が見えるよ」
塔崎に肩を抱かれたまま、窓辺へといざなわれていく。ベランダに面した窓が開けられ、熱風が室内に入る。
「ほら、あそこ。黒っぽい、ガラス張りのビル。見える?」
頬に塔崎の呼気がかかる。コーヒーと古い脂が合わさったような、加齢による口臭がした。春樹は息をとめ、ひたいに手をかざした。塔崎が指差す先を見て「見えます」と言っておく。本当は見えないのだが、かまうものか。
「今日は稲見さんの送迎なんだよね?」
「はい」
「それならこのお部屋のこと、聞いているよね」
鈍い頭がようやく動きだす。
空欄の表札、家具のない部屋、新品のエアコン、弁護士と書類。そして稲見の言葉。
『本決まりになったら、今から行く部屋に社の車で送ることはない』
ここは、塔崎が春樹と会うための部屋なのだ。
背後でスリッパの音がした。塔崎が照れたように離れる。鞄を提げた今枝が、リビングの入り口で一礼した。
「事務手続きに入ってよろしいでしょうか、塔崎様」
「お願いします」
愚鈍な男娼が焦る。塔崎の二の腕をそっとつかみ、小声で言う。
「あの、お返事前の高額なお買い物は」
「心配ないよ、賃貸物件だから。きみもいいお部屋だと言ってくれたでしょう?」
「でも……あ」
春樹から言葉を奪ったものは、今枝が開けた玄関ドアの音でも、急に鳴きやんだ蝉の声でもなかった。
社のメインバンク関係者の、自信に満ちた笑顔だった。
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