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第一話・焔 第五章・3


「……ごめんなさい。もっと早くかけるつもりだったんですけど」
「もういいよ。警察が来るなんて、そうあることじゃない。きみも気が立っていたんだろう。僕も言いすぎた」
「そんな、悪いのは僕です」
 気まずい間が生じた。春樹は受話器を押さえてため息をつく。向こうも同じことをしたようで、くぐもり声がした。
「きみは大切な契約を控えている。身辺に注意しないと、困るのは自分なんだよ」
「……はい」
「再来週にはお返事しなきゃいけないからね。いい?」
「はい」
 服部刑事が春樹のそばにいるようにと言っても、橘はそそくさと帰ってしまった。連絡するとも言わなかった。
 結局、実質的に春樹を助けるのは、塔崎ただひとりなのだ。
 べとべとした声を我慢して、二年と少し耐えればいい。せいぜい甘えて金を貯めて、それで……。

 『それで……いつか必ず、お前を親に紹介する』

「……きくん? 春樹くん! 聞いてるの?」
 二度もなおざりにしては、さすがにまずい。春樹は直立不動になり、受話器をしっかと握りなおした。
「ごめんなさい。もう一度おっしゃってください」
「まったくもう。明日の午後、塔崎様と会ってもらうからね」
「は、はい。あの、どこで」
「ある不動産物件だよ」

「不動産物件……?」








 翌日、車中の稲見はあまりしゃべらなかった。春樹は制服姿で助手席に座っている。
 稲見にしては珍しくラジオをかけない。昨夜の立腹が続いているのだと判断し、車窓に意識を流した。
 車体が路肩に寄せられる。稲見はまぶしそうに目を細め、巨大なビルを見上げた。
「塔崎様はこちらにいらっしゃることが多い」
 ビルと稲見を見比べてしまった。どう見てもオフィスビルだ。こんなところで会えと?
「塔崎様は今、ここに?」
 稲見が愚者を見る顔つきになる。目頭を押さえ、疲れた様子で伸びをする。
「いるわけないでしょう。ここは塔崎様の銀行の本社ビル。さ、外を見て。道順を覚えないとね」
 話が見えない春樹を乗せた車が、再発進した。
「本決まりになったら、今から行く部屋に社の車で送ることはない。一度で覚えなさい」
「部屋って、どういう」
 運転席を見た春樹が固まる。稲見はいつになく険しい顔をしていた。
「覚えなさい。高岡さんのためでもある」
「高岡さん……?」
「きみは昨夜、高岡さんを悪く言うなと言ったよね」
 携帯電話に気を取られていたとはいえ、あまりに軽率な言動を思い出す。
「問いただすつもりはない。社にも、高岡さんにも言わない。僕からの忠告だと思って、黙って聞いてほしい」
 春樹の視線は定まらず、鼓動が速くなっていく。
「商品が調教師に、恋愛に似た感情を抱くことはたまにある。彼らは人心を掌握するプロだ。最低でも一度は肉体関係を持つし、情にほだされても無理はない」
 押し殺し、逃げている事実を逆撫でされた。心のなかで首を横に振る。
 高岡を恋しく思うのは、感謝に似ていた。お節介な男は命の恩人でもある。高岡が自殺をとめてくれなければ、新田も竹下も傷ついていたに違いない。
 世話を焼かれて勘違いした。高岡自身、春樹が告白したときに錯覚だと言っていた。
 錯覚だ。燃え上がる恋ではない。
 カーラジオのない空間で、ウインカーのリレー音がする。
「塔崎様は譲歩して上級生との交際をお認めになった。こんなチャンスを逃してはだめだ。望まれる存在でいればきみも楽になるし、高岡さんの評価にもつながる」
「評……価……」
 黙っていろと言われても声が出た。しかし、稲見は春樹を叱らなかった。
「そう、評価だよ。フリーランスの彼にとっては、何よりの糧だ」
 調教師の評価など知るかと思えたら。無益な恋が春樹を縛る。
 交差点名が頭に入らない。車は一度しか曲がらなかったのに、援助者への通い路を叩き込むことはできなかった。


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