Cufflinks
第一話・焔 第五章・3
春樹はリビングの時計を見ている。空が夜の衣装に着替えるなか、掛け時計の針を目で追っていた。
橘はすでに帰っており、部屋には春樹しかいない。ソファで体育座りをする。
長内も服部も小谷とは違った。単独で十六歳の少年を尾行したりせず、訪問の時間をあらかじめ伝え、約束どおりに訪れた。煙草も吸わず、フライドポテトを汚らしく食べたり、げっぷをすることもない。
決定的に違っていたのは、井ノ上に関して何ひとつ言及しなかったことだ。西が死んだことも言わなかった。
新宿のホテル前で揉めた夜、西のほかに井ノ上がいたことは警察も把握していると思っていた。井ノ上を覚えているか、くらいは訊かれると覚悟していた。
同じ警察官でありながら、小谷は井ノ上の写真を破り捨て、今日のふたりは井ノ上のいの字すら出さない。
西の交友関係において井ノ上は注目すべき人物ではないということなのだろうか。
「修一には……訊くかな……」
携帯電話を開いて新田のメールを確認する。警察が来る予定時刻を、昨夜のうちに知らせ合っていた。メールのとおりなら刑事たちは春樹の部屋をあとにして、その足で新田の家に向かったことになる。
警察とは権力の象徴だ。接触されただけで市民の人権は著しく脅かされる。
目に見えない価値観ほど恐ろしいものはない。『素行』は将来を決める重要な要素になる。金で買えないイメージが黒く染まってしまえば、輝かしい未来への道は断たれたも同然だ。あとになって世間が潔白を認めても遅い。黒に白をまぜてもグレーになるだけであり、それはレッテルの色となる。
ホテルの前で喧嘩をし、後輩を残して逃げたのだと、新田は両親の前で言わなくてはならない。アリバイも訊かれる。
我が子を疑いはしなくても、とまどい、悩む父母の姿を想像するのは、親を知らない春樹にも難しくない。
春樹はふたたび時計を見た。もう刑事たちも新田家にはいないだろう。新田は両親から何と言われているだろうか。悲しげな目を向けられていないか。
自宅電話が鳴り響いたのは、自分の不甲斐なさに唇を噛んだときだった。
(修一?!)
新田にはこの部屋の電話番号を教えていないことも忘れ、受話器に取りすがった。
慌てふためいたため、携帯電話が開いた状態でリビングの床を滑ったことにも気づかなかった。
「はい!」
「あ、春樹くん? ちゃんといたんだね。橘さんがお帰りになってから出かけたりしていないよね」
電話口から聞こえる稲見の声に、落胆のため息が漏れそうになる。
「してません」
外出しても携帯電話にかけてくるではないか。よそ見した拍子に携帯電話が視界に入る。
「新宿にやってくれというきみに従った僕にも責任の一端はあるわけだけど……盛り場をうろつかなければ、おかしな騒動に巻き込まれなかったんだからね」
「ああ……はい」
生返事をして携帯電話を見る。着信を表す画面になっていた。落ちている携帯電話に手を伸ばしたとき、自宅電話の受話器が稲見の声を響かせた。
「上の空でいる場合じゃないでしょう! そういう態度ならね、今後一切、きみの好きなところで降ろさないからね!」
怒声に驚いて返事が引っ込む。
「真剣に考えてくれないと困るよ、本当に! きみのような立場じゃない子ならこんなにがみがみ言いやしないよ。きみ、わかってるの? 安全第一、学業優先だって、高岡さんに教わってないの?!」
高岡、のひと言で血が逆流した。
片手で携帯電話を拾い上げた春樹は、自分でも驚くほどの大声を出していた。
「そんなこと、わかってます! 高岡さんを悪く言わないでください! これは僕の問題です!」
一瞬も置かず、逆巻く血の気が引いた。
携帯電話の画面に『新田先輩』とある。指が滑って通話ボタンを押してしまったのか、通話中の状態になっていた。
「うそっ!」
「嘘?! 何が嘘なの! 今日という今日は」
「ごめんなさい稲見さん! 一度切ります。あとでかけなおしますから!」
ヒビでも入りそうな勢いで受話器を置くと、恐る恐る携帯電話を見た。つながっている電話機の向こうから春樹を呼ぶ声がしている。スピーカー部分の振動が手のひらに伝わってくる。春樹は深呼吸して「もしもし」と言った。
息をのむような音のあと、緊張を隠せない新田の声がした。
「春樹か? 声がはっきり聞こえないから、具合でも悪いのかと思った」
「ごめんね。携帯に出ようとしたら自宅に電話があって……警察、どうだった? 答えに困ること訊いた?」
「予想していたこと以外は訊かれなかった」
沈黙が下りる予感がした。予感は当たらず、新田の声が低くなる。
「今の、誰からの電話だ?」
優しい人の詰問口調が返答を遅らせた。質問がたたみかけられる。
「間違い電話じゃないよな。高岡さんを悪く言うなと聞こえたけど、どういう意味だ」
「そ、それは、あの」
「どうして口ごもる? 俺に知られたくないことなのか」
猜疑心は新田に余裕がない証拠だ。警察が来た日に電話口で高岡の名を聞いて、面白いわけがない。
「会社の人なんだ。高岡さんの注意が足らないんじゃないかって言うから」
間違っても高岡をかばうことにならないよう、言い訳をひねり出す。
「高岡さんは短気な人だし、僕の生活に細心の注意を払ってはいない。でも、それなら父も会社も同じだよ。今日だって父は来なかった。自分たちだけ安全なところにいるのに小言を言われて、カッとなったんだ」
新田の自室にある、パイプベッドがきしむ音がした。
「安全なところ……か。確かにそうかもしれないな」
どうにか信じてくれたようだ。落ち着きを取り戻したらしく、新田の声からトゲが消えていく。
「詮索して悪かった。春樹は今日、後見人についててもらったんだよな?」
「うん。もう帰ったけどね」
同席する者がいるのか心配する新田に、法律上の保護者が来るとメールで知らせてあった。
「その人が帰ってからひとりなら、心細かったよな」
新田に思いやりが戻る。春樹は携帯電話を耳に強く当て、一言一句を胸に刻む。
「僕のことより修一だよ。ご両親、心配したと思うし」
「俺は大丈夫。両親も取り乱してないから安心してほしい。行動に責任を持てと、説教はくらったけど」
説教という言葉に、どちらからともなく笑いに似た吐息が漏れる。
「電話、俺の聞き違いじゃなければ、かけなおすんだろ。もう切ったほうがいい」
「少しならいいよ」
「いや、切って会社の人と話してくれ。俺とはいつでも話せる」
わかったと言って電話機を離そうとしたら、真摯な言葉が続いた。
「後悔はしていない」
「え?」
「お前とホテルに入ろうとしたこと、後悔してない。それで……いつか必ず、お前を親に紹介する」
「なに言って……修一!」
「少し早いけど、おやすみ。心から愛してる」
電話が切られて通話中の表示も消える。
親に紹介すると言った。後輩以外の何と言って引き合わせるつもりなのだ。
好きな人、大切に想う相手。運命を共にする恋人。
どれもだめだ。今度こそ新田の両親を悲しませることになる。
自宅電話の呼び出し音が鳴った。怒りをあらわにかけてきたのは『会社携帯』だった。
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