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第一話・焔 第五章・3


 自宅に戻るなり六畳間を開けた。国語辞典をはじめとして、辞書の類はすべて引いた。次に携帯電話を開く。
 春樹はパソコンを持っていなかった。学校の授業以外で使う必要性が感じられず、欲しいと言ったことがない。
 唯一のインターネット環境である、携帯電話の辞書が導いた言葉を読む。
「あやつり人形……他人の言いなりに動いて……利用されている者……」
 汗が携帯電話の画面に落ちる。シャツで液晶画面をぬぐい、もう一度文字を凝視する。
 矢田が入院する病院の前で、井ノ上は高岡が磯貝の傀儡だと言った。その場では意味がわからず、一番近い書店に飛び込んで国語辞典を手に取った。
 傀儡の意味を調べた春樹は信じられない思いでタクシーに乗り、どこにも寄らずに帰った。
 七月最後の土曜日に見た奇妙なシルエットが眼前に広がる。

 ホテルの地下駐車場に、二頭の獣がいた。正確にはふたりの男だ。
 ひとりは赤茶色の髪をした大柄な磯貝、相対するのは高岡だった。
 張りつめた空気に包まれたふたりが交わしたものは何だったのだろう。
 唇は決して合わせず、頬と頬とを重ねていた。互いを値踏みするように見えても対等な関係に思えた。
 少なくとも春樹にはそう見えた。

 高岡が操り人形……?
 あの男が自分を殺し、言いなりになることがあるのだろうか。
 エアコンをつけていないため、汗がまた電話機に落ちた。なかば無意識に『T』を表示する。
 傀儡という言葉が持つ、不穏な空気が怖い。
 高岡はおとなしい男ではない。腹に据えかねる関係なら断ち切っているだろう。傀儡でいるよう強要されているのだとしたら、それこそ春樹にはどうしようもない。
 汗で指が滑った。プッ、プッ、プッという電子音がした。
(しまった)
 携帯電話の画面がコール中のものになる。大急ぎで電源ボタンを押した。
 磯貝の名を出したときの須堂の顔、高岡の頬を撫でた磯貝、病院の前で出くわした井ノ上──
 底が灰色の雲が視界の隅に入る。窓の外が暗くなってきた。
 春樹は窓辺に立ち、凶兆としか思えない雲が切れるまで動かずにいた。








 翌日の昼過ぎ、春樹は総合病院にいた。
 前を歩く稲見から面会証を渡される。会社員が首から提げる社員証に似ているが紐はなく、クリップで服に付けるようになっていた。険しい目つきの稲見が振り返る。
「春樹くん、勉強は? 宿題も出ているだろうに。塾には行っているようだけど」
「宿題は予定どおりに進んでます。お忙しいのにごめんなさい」
「時間のことじゃないよ。ああ、こっち、こっち」
 エレベーターに稲見とふたりで乗り込む。平日でも見舞い客はそれなりにいた。
 春樹は昨夜、矢田を見舞いたいと稲見に頼んだ。必要ないと断られても食い下がった。
 結局稲見が折れて迎えにきてくれたのだ。
 エレベーターが目的の階に着く。食べ終わった食器の入ったワゴンが、目の前を通りすぎていった。
 廊下に出た稲見は迷わず右へ曲がった。案内板を見ようとしない。この病棟に何度か足を運んでいるのだろう。
「矢田くんと何を話すの」
「ちょっとでも楽な気分になれることなら、何でも。矢田さんが疲れる前に帰ります」
 稲見が立ちどまる。引き戸の横にあるプレートに、矢田健介と書かれていた。
「まあ、刺激があったほうが彼も気が紛れるだろうけどね」
 刺激とは春樹のことだろう。やれやれといった顔の稲見が、戸をノックした。








 病室は広い個室だった。ソファやダイニングセットもあり、半分ほど食べた食膳がテーブルに置かれている。
 ゆるく傾斜するベッドの上半分に背中をあずけていた矢田がこちらを向いた。春樹を認めて眉間に深い縦じわを刻む。仏頂面ではあるものの、稲見に対しては頭を下げた。稲見が笑顔で矢田のベッドサイドに進む。
「調子はどう?」
 と言いながら折りたたみの椅子を広げ、ジェスチャーで春樹に座るよう促した。
「……おかげさまで」
 矢田の表情が冴えない。前に話したときより痩せたのでないだろうか。
 頭に厚く巻かれた包帯が痛々しいが、顔は軽傷だった。ひたいに絆創膏が貼られている程度で、目の周りや口の横にアザなどは見られない。
 無傷に近い、美しい顔を見て春樹は決意を固めた。膝に乗せていたビニール袋を開ける。


  ※「デジタル大辞泉」(小学館)より引用


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