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第一話・焔 第五章・2


「高岡は何て言ってる」
「な、何も」
「じゃあおれも言うことはない。帰れ」
 革張りのソファをきしませて須堂が立ち上がる。扉と壁の境目にもたれて、ふたたび腕組みをする。
「お前が言う赤毛野郎かどうかは知らねえが、磯貝というクズは確かにいる」
 須堂は真っ直ぐ前を見ていた。ずっと遠くにある何かを睨みつけているみたいだ。
「磯貝は女コマしてしのぐ。犬畜生にも劣るやつだ」
 女コマしてしのぐ、の意味がわからない。だが、訊ける雰囲気ではなかった。
「磯貝だの井ノ上だの、くだらねえやつらには近づくな」
「……はい」
 新田に似た褐色の瞳がこちらを向く。扉が開けられ、帰るよう促される。
「今日のことは高岡には黙っとく。だからお前も、高岡のことはほっとけ」
 パタンと音をたてて小部屋の扉が閉まる。
 春樹は締めつけられる胸の痛みを隠して外へ出た。








 夏の夜は熱を含んでいる。出てきたばかりの事務所から灯りが届かなくなると、春樹はがくりとうなだれた。
 須堂の背後にゆらめいていた不動明王を思う。
「怒らせちゃった……よな……」
 スニーカーの底を引きはがすようにして歩く。手でひたいの汗を拭う。最後の言葉が消えそうにない。

 『高岡のことはほっとけ』

 高岡の本性を知る人なら誰もが言うに決まっている。春樹を気にかけるからこそ出た言葉だ。
 平らなアスファルトでつまずいた。スニーカーの紐が解けて踏まれている。歩道の端にしゃがもうとしたら、ポケットが震えた。迷いなどこの世にないものと思い、通話ボタンを押した。それでも胃が痛み始める。
「……新田先輩」
「今、いいか?」
「いいよ。電話、待ってました」
 昨日、新田から電話があった。今夜またかけると言っていた。新田の言葉を待つ気持ちに偽りはない。
 耳にして胸が踊り、会いたくなるのは新田の声だ。高岡を忘れて新田だけを想えば問題は消える。
 なぜ、できない?
「春樹……? どうかしたのか?」
 無言が新田を不安にさせた。春樹は小路に入り、勘ぐらせない程度に明るい声を出した。
「父さんの会社の人と会ったりして、肩こっちゃって。いきなり黙ってごめんね」
「謝ることじゃないだろ。疲れてるなら日を改めるぞ」
「いい。話して。修一の声、聞きたかった」
 胃痛をこらえて意識を新田に向ける。どうしてこれほど努力が要るのか考えながら。
「明日……空いてるか? 一日……」
 新田はアルバイトが終わったら一日空けてほしいと言っていた。返事をしようとした春樹が凍りつく。
 表の通りを、背の高い、黒い髪の男が歩いている。
 連れらしき数人の男女がその男に声をかける。振り向いた男の顔を見て、春樹は安堵のため息をついた。
「────き、春樹、聞こえてるか?」
「聞こえてる……」
「無理してないか? 都合が悪いなら別の日にするし、お前が嫌なら」
「嫌じゃない。修一に会いたい。会って話がしたい。修一のそばにいたい!」
 両手で電話機を持ち、通行人が一瞬こちらを見るくらいの声で答えた。
 先ほど振り向いた男が高岡に見えた。髪の色と身長が似ている、まったくの別人に全神経が集中しかけた。
 忘れるのだ。新田をずたずたに引き裂く前に、忘れてしまえ。
「夏休み、長すぎる。寂しいよ……会いたい……!」
 大通りの喧騒と、新田がゆっくり呼吸する音だけが聞こえる。春樹は目を閉じて通りに背を向けた。
 今は誰も視界に入れたくない。
「会いたいと言ってくれてありがとう。でも、ひとつだけ教えてほしい」
「なに……?」
「約束だからって、思いつめてないか? 義務みたいに感じてるなら、無理してほしくないんだ」
 きつく閉じたはずの目があっけなく開いた。
 知られている? 新田への奇妙な義務感が育ちつつあるのを、見抜かれている……?
「無理なんかしてない」
 蒸れたにおいがする壁を見る。小路を挟む商業ビルの壁だ。ひびの入ったコンクリートに雨の跡や薄い緑の苔がある。ゴミもたくさんあった。ゴミから目をそらすと同時に、仕事用の回路を作動させた。
「無理じゃないよ。お願い、義務なんて言わないで。こんなに好きなのに……悲しくなる」
 涙に似た液体が滲んできた。我ながらやりすぎかと思うものの、一度スタートした回路は役目を果たすまでとまらない。
「ごめん、悪かった。明日の朝に東京駅で会おう。八時じゃ早いよな」
「早くない。今すぐ会いたい。夢のなかで会えないかな」
「春樹……そんなこと言わないでくれ。勉強に身が入らなくなる」
 新田の声が熱っぽくなってきた。詳しい待ち合わせ場所はメールで決めることになり、疑似涙も乾く。
「早く明日になってほしいと思ったの、ひさしぶりだ。愛してる」
「僕も愛してる……修一」
 夜でも八時近くにならないと闇にならない季節だ。ビルに切り取られた空は薄明るい。なまぬるい風が吹き、春樹の足もとに散らばるゴミを転がした。ゴミの軌跡を見る春樹の胃は、いつしか痛みを忘れていた。


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