Cufflinks

第一話・焔 第五章・2


 春樹は六畳間のクローゼットを勢いよく開けた。ダンボール箱から洋菓子の空き缶を出し、一枚のメモ用紙を探す。
「……あった!」
 須堂と寝た日に手渡されていたメモ用紙だった。もどかしい手つきで広げる。
 ホテルの浴室で須堂の不動明王を見た春樹は逃げようとした。高岡の知人が立派な入れ墨をしているなどと聞いていなかったため、パニック状態になったのだ。緊張しきった春樹に、須堂が名刺代わりにとこのメモを渡した。きれいな字で、須堂の氏名と、須堂が経営する不動産会社の電話番号が書いてある。
 携帯電話でメモの電話番号を押し、あとは通話ボタンというところで指がとまった。

 『お前、見たことあるな。磯貝んとこの』

 新田が暴漢に殴られた夜、須堂が井ノ上にそう言った。
 暴漢の仲間である井ノ上が磯貝と何らかの関係があるのは、須堂の口ぶりから推測できる。
 磯貝は須堂の知人のようだが、おそらく不動産業に携わる者ではないだろう。
 今日、ホテルの駐車場で井ノ上は深く頭を下げていた。高岡にも須堂にも平然とした顔しか見せなかった井ノ上が、赤茶色の髪をした男にだけは忠誠を誓っているように見えた。井ノ上が敬意を払った男こそ、磯貝に違いない。
 唾を飲み、携帯電話を見る。
 高岡は磯貝の名をひた隠しにしようとしていた。磯貝が暴力団関係者だとして、高岡もまともな人間ではない。非常識な者のあいだで何が起ころうと、気にする必要はないのだ。
 ホテルから一緒に出てきたからといって、食事の可能性もあるではないか。ロビーで会話しただけかもしれない。
 それに春樹は一度ならず、高岡のプライベートに立ち入らないと決めたはずだ。
(わかってる。わかってる……けど)
 春樹は通話ボタンを押した。呼び出し音を聞きながら、入道雲が浮いている空を仰いだ。








 土曜の夜七時近くでも、須堂の会社には客が何人かいた。
 入り口から見て一番手前の席にホステスと思われる女性と付き添いの男性、少し離れた席には小料理屋を切り盛りしていそうな中年女性が座っている。客に書類やパソコン画面を見せるのは、スーツ姿の若い男性従業員たちだ。
 春樹は客の後ろを通り、須堂に続いて奥へと入っていく。
「ごめんなさい、忙しいですよね」
「忙しいほうがこっちは助かる。ガキが変な気つかうな」
 広いとはいえない事務所の奥は、従業員のロッカーを兼ねた小部屋だった。大柄な須堂といると圧迫感を覚える。
「で? 何の話だ?」
 いざ面と向かうと言葉につまる。手の平が汗ばんできて、春樹は切り出した。
「井ノ上さん、覚えてますか? 須堂さんが僕を助けてくれた夜、自分で井ノ上と名乗った……」
 女性従業員が須堂と春樹の前に麦茶を置く。須堂はあごに手をやって、記憶を追うような顔をした。
「あー、あいつか。男色は好みません、とかほざいた」
「そうです」
「あの若いのがどうした」
 春樹は一度茶を飲み、部屋の扉を見る。盆を持った従業員が扉を閉めるのを確認すると、声を落として言った。
「高岡さんと会ってたんです」
 須堂の手がぴくりと動いた。ガラスのコップ越しに見える小さな目が鈍く光る。
「ふん。それで?」
 冷えた麦茶を飲みほした須堂がコップを置く。問い返しは予想していたものの、声の冷たさが意外だった。
 須堂は春樹にかまわず、煙草に火をつけた。
「井ノ上ってやつと、高岡が会ってた。それがボーヤに何か関係あるのか?」
「関係……は」
「ないよなあ。高岡はいかれた変態で、お前はガキだ。あのばかがどこで何しようが、関係ないよな。それか、あれか。ボーヤは仕事で井ノ上と接点でもあんのか」
 たたみかけられ、春樹はコップを握った。水滴と汗とで滑りそうだ。
「ごめんなさい」
「……あ?」
 小指が途中から義指になっている須堂の右手が、煙草を灰皿に押しつけた。こちらを見据える目が怖い。
 不動明王が──須堂の背後にかげろうとなって立っている。
「あっ、あの、ごめ」
 グローブみたいな手が迫ってくる。目をつぶった春樹から、麦茶のコップが静かに取り上げられた。
「お前、何しにきた」
 春樹のコップを置いた須堂が腕組みする。荒々しい動きは一切ないものの、反論のはの字も許さない気迫がある。
「井ノ上とかいうチンピラがボーヤの仕事に関係あるなら、話を聞く。なければ帰るんだ」
 須堂の電話番号を探すとき、高岡にかかわるなと自分に言い聞かせようとした。電話したあとも、用事ができて行けなくなったと言おうかと考えた。
 できなかったのだ。高岡を好きになってしまったことは忘れる。
 しかし、自分の血を流してまで生きろと教えた高岡を案じることは、私的な感情の問題ではない。
 春樹はひたいをローテーブルに打ちつけそうになりながら頭を下げた。
「ごめんなさい! 仕事じゃないけど教えてください! 赤茶色の髪をした男性をご存知ないですか? 立派な体格で、言葉のイントネーションが東京じゃない感じの人。高岡さんと一緒にいたんです。磯貝さんという人じゃないんですか? もしそうなら、磯貝さんと高岡さんがお知り合いかどうか、教えてください……!」
 訪れたのは沈黙だった。須堂は少しも動く気配がなく、煙草を吸おうともしない。春樹の背に冷たい汗が流れるころ、野太い声がした。


次のページへ