Cufflinks
第一話・焔 第五章・2
「はっ……ん、ああ……」
高みを見た体から力が抜けた。先に達していた塔崎が、春樹の下腹をそっと抱く。
「きみのなか、熱かったよ。夏だからかな。風邪じゃないよね?」
ひたいを触られた。頬も触られて、耳朶に遠慮がちなキスを受ける。
春樹は足先から粟立つ肌を隠すべく、ベッドカバーをたぐり寄せた。バスローブを羽織った塔崎と一緒に横たわる。
「体調が悪いなら言ってね。僕は無理強いしたりしないから」
「大丈夫……大丈夫です」
「困ったことがあれば、迷わず僕に……かわいい人……」
塔崎は春樹の頬に唇を寄せると、仰向けになって目を閉じた。
おとなしい男でも、客は客だ。行動には常に注意する必要がある。
穴のあくほど見ていても、塔崎は何もしなかった。無防備な顔をして眠ってしまった。
「……塔崎様」
眉根もひくつかない。寝息も安らかだ。春樹は静かにベッドカバーを引き上げた。塔崎にかけてやり、肩口から空調の風が入らないようにする。
妻子はいないと言っていたが、孤独をどう扱っているのだろう。男娼遊びで紛れる寂しさなのか、慣れたのか。
塔崎に必要なのは少年の体ではなく、誰かと眠る時間なのかもしれない。
ふたたび横になり、五十男の寝顔を見る。すぐにシャワーを浴びる気になれなかった。
疲れた銀行家が目覚めるまで、同じ床でじっとしていた。
コンシェルジュに案内されることも慣れてきた。
地階でエレベーターを降り、二重の自動ドアに向かう。コンシェルジュに会釈して駐車場に出る。
社用車に向かおうとしたとき、シルバーの外車が視界の端に入った。
何気なく運転席を見た春樹は、両手を口に当てて後退った。
左ハンドルの高級車を運転する男を知っている。短髪で痩せた顔の、井ノ上だ。
春樹は自動ドアに取って返そうとして、慌てて駐車場の歩行者用通路に戻った。
男がふたり、エレベーターホールから歩いてくる。泊まりでないのか断ったのか、コンシェルジュがいない。
ひとりは赤茶色の髪をした男だった。がっしりした体格で、もう少し上背があれば須堂かと思う背格好だ。
彫りの深い顔にダークスーツがよく似合う。
そしてもうひとりは。
(高岡……?!)
今まで見てきたなかで、一等と思える服を着ていた。均整のとれた体に沿う三つ揃えが、触れれば切れそうな空気を演出している。
男と高岡が内側の自動ドアに差し掛かる。春樹は忍び足で通路を歩いた。社用車とは反対側の角を曲がり、死角になりそうな位置まで体を引っ込める。
極力自分を隠し、ぎりぎりのところでのぞいてみた。
車から出てきた井ノ上が後部座席のドアを開けた。スーツ姿で深々と礼をする。
エンブレムが輝く車の手前で、赤茶色の髪の男が高岡を見る。薄く笑い、三つ揃えのジャケットに触れた。
襟からネクタイ、首、頬と撫でていく。耳をかすめ、艶のある黒髪をすく。
触れるか触れないか。頬と頬とが重なり、離れた。
(なんだ……今の)
唇はかすりもしていない。頬を合わせただけだ。まるで狼が相手との距離を測っているようだった。
においを嗅ぎ、互いの体躯を値踏みして、最後に牙を隠す顔を近づける。そんな感じだ。
くつろいだ雰囲気がない。かといって、昨日今日知り合った仲にも見えない。
ふたりが後部座席に座り、ドアが閉められる。ふと、井ノ上が動きをとめた。
骨ばった顔が、わずかにこちらを向く。春樹の心臓が早鐘を打つ。
後ろの窓が下ろされた。ダークスーツの男が井ノ上を見て言う。
「井ノ上。何だ」
聞き慣れないイントネーションだ。関西か……南方の方言に似ている……?
「……気のせいだったようです」
井ノ上が運転席に乗り込む。春樹は靴を脱ぎ、走って次の死角を目指した。
車の進行方向を考えていなかった。ここにいたら地上へのスロープから見られてしまう。
守衛室前を通過して、従業員用のトイレに逃げ込む。
外車の走行音を聞く春樹の脳裏に、二頭の獣にも似たふたりが残った。
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