Cufflinks
第一話・焔 第五章・2
風呂から上がって一時間以上経つのに蒸し暑い。テレビでは夜になっても二十八度近いと言っていた。
Tシャツとトランクスでソファに腰かけ、携帯電話を開く。何度も見ている着信履歴の一番上に『新田先輩』がある。
『僕は、あなたが……! あなたを』
先週の水曜、高岡にぶつけた言葉が頭に響く。
傷のある右手で口をふさがれなければ、好きと言ってしまっていた。
心変わりなどしていない。陽だまりみたいな安らぎは高岡には求められないし、求めようとも思わない。
(修一と生きるんだ。修一のために生きると決めたはずだ)
春樹が死のうとしたとき、高岡は右手を切った。高岡の血は赤い鏡を作って春樹を映し、取り込んでしまっている。
新田を危険な世界に引き入れてはいけない。優しい恋人と歩むなら、鏡を割って出なくてはならない。
テレビを消し、新田の番号に発信した。何を話すか決められないまま呼び出し音を聞く。
「やめろよ! お前だって同じことされたら嫌だろ! あ、ごめん、春樹」
耳に飛び込んできたのは、焦ったような、怒ったような新田の声だった。
「どうしたの。今、まずかった?」
「いや。妹が人の携帯見ようとして……こら、服が伸びる!」
ふすまを閉めたような音がする。女の子の楽しそうな声が小さくなった。
「いつまでも子どもで困る。着信、見てくれたのか?」
「うん。すぐに出れなくてごめんね」
「いいんだ。声が聞きたかっただけだから。おい、ちゃんと片づけろよ! 寝るなら扇風機弱くしろ!」
ふすまの向こうに怒鳴っているらしい。出会ったころの溌剌とした声に似ていて、自然と口もとがゆるんだ。
「修一、お兄さんしてるね」
ばか、という新田の声が明るい。自室に行くのか、階段を上がる音がした。
「両親が用事で遅くなるから、いい気になってる。宅配ピザ取ってテレビ見放題。宿題もやらないし、まったく」
「妹さん、夏休みも部活なんでしょ? ちょっとくらいいいと思うよ」
新田の妹は中学の陸上部に所属している。兄妹で写った写真が、新田の部屋に飾られていた。
「ちょっとじゃないから問題なんだ。妹のことはいい。春樹、頑張ろうな」
「……え?」
「え、じゃないだろ。月曜日からバイトじゃないか」
そうだった。七月の第四週に、五日間のアルバイトがある。
学校教育の一環で、春樹は自宅最寄り駅近くの花屋、新田はスーパーの品出しに決まっていた。
「言われたら緊張してきた。最初の日が祝日だと、足手まといにならないかな」
「雇う側も考えてくれていると思う。難しいことはさせないだろうし」
アルバイトの予定は他愛ない会話をもたらしてくれた。考えられる失敗例を挙げ、冗談で笑い飛ばす。
気づけばバッテリー残量を気にしなくてはならないほど、話し込んでいた。
「こんなに笑ったの、久しぶりだな」
「うん」
「また電話していいか」
「え、いいよ。どうしてそんなこと訊くの?」
パイプベッドがきしむ音に続いて、窓が開くような音がした。立ち上がった新田が窓辺に移動したのだろう。
「お前が……俺では太刀打ちできない人と会ったりしないか、気になるんだ」
太刀打ちできない。前にも聞いたことがある。
新田は以前、T大合格経験のある高岡のことを、優秀だ、太刀打ちできない、と話していた。
「そんな。会わないよ。そんな人いない」
大通りを数台のオートバイが走っていく。とどろきわたる音が、春樹を暗い穴の縁に立たせる。
「あ、会わないから。高岡さんのこと言ってるなら、会わないようにするから」
道を違えて走るオートバイをパトカーが追う。あおられる音が怖くて、ソファの上でちぢこまった。
「ごめん、春樹。お前を大切にさせてほしいって言いたかっただけだ」
「してくれてるよ、修一は! いつだって……!」
大声になってしまい、手で口をふさいだ。動悸が激しくなり、視線が揺れる。
「もっともっと大切にしたい。俺にはお前しかいないから……おやすみ、春樹」
言葉とは裏腹に、一方的に通話が切れた。
かけなおす勇気も見つけられず、冷えていく携帯電話を握りしめた。
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