Cufflinks
第一話・焔 第五章・2
「ああそうだ。申し訳ありません。お借りしていたハンカチを紛失してしまいました」
「ハンカチ……?」
よほど怪訝な顔をしてしまったか。粥川はまた、眉を下げて笑った。
「お忘れになりましたか。怪我をした僕に貸してくださったではないですか」
何のことか思い出すまで数秒かかった。
三浦のペントハウスで陵辱された夜、自ら雇った男に殴られて流血した粥川に、春樹はハンカチを渡した。
何を今さら。三か月も前のことだ。
「別にいいです。返していただくつもりはありませんから」
春樹の返答を受けて粥川が大仰に胸を撫で下ろす。
いやに芝居がかった仕草が気になり、春樹は足をとめた。
「安心しました。なくした場所を忘れてしまいましてね。ここに入院している方のアパートに寄ったこともありましたので、そこで落としていたら──厄介ですから」
「なっ!」
木の葉を透かす陽の光がストロボと化す。頭がぐらぐらした。
粥川が矢田を殴打したとして、素手で凶器に触れるような男ではない。
「あなたという人は……!」
春樹が思い至ったことなど易々と推察できるのだろう。粥川は歩を進めて春樹との距離を詰める。
「紛失したというのは嘘です。ご安心を。野蛮な行為にあなたのハンカチを使ったかは、記憶にありませんがね」
春樹のなかで憤怒の炎が燃え盛る。自分の所持品が下劣な犯行に使用された可能性があるからではない。
粥川は矢田を放置した。すぐに診せていれば意識不明に陥らなかったかもしれないのに、打ち捨てた。
「あなたたちの悪行をしゃべるなと念を押すため、ここに……?」
粥川は真顔に戻り、腕組みした。
「おかしなことをおっしゃる。僕は休日の散歩中に、偶然あなたをお見かけしただけですよ」
偶然などと、よくもぬけぬけと。散歩が嘘でないとしても、私的な時間に商品と話もないものだ。
怒りの火を抑制するタガが、危険な音をたてて外れた。
「主人に喜んでもらうためならどんな危険でも冒す。大変ですね。でもご心配なく」
不遜な言い草に粥川が眉根を寄せる。
「修一に何かあれば僕は洗いざらいぶちまけて、あなたと刺し違えるまでだ」
コンマ一秒おいて、粥川が笑った。ばか笑いではない。嫌なえくぼを見せる笑みだ。
「大事な大事な先輩に、痴態を知られてもかまわないと? ありえない」
「ありえるんです」
春樹は一歩踏み出した。話すあいだにバッグから出しておいたシャープペンシルを粥川の脇腹に当てる。
カットソー越しに感じる筋肉が強張った。
「真剣なんですよ。あなたが三浦様のために何でもするのと同じように」
粥川の目に怒りらしき影が走った。子どもじみた真似をする春樹の手が震える。
それを見た粥川がニッと笑う。
「あなたは本当に面白いことを言う」
刺してみろと言わんばかりに、ずんずん歩み寄ってくる。春樹は粥川を見たまま後ろ向きに歩く。
車の出入り口があるあたりまで下がったとき、ふくらはぎに何かが触れた。
「うわわっ! ごめんなさい!」
背後からの大声に春樹が振り向く。粥川も歩みをとめた。
ふくらはぎに当たったものはオートバイの前輪だった。悪路も走るオフロードタイプに似ている。単車を隅に停める男を見た春樹は、大きく息をのんだ。
明るい茶色の髪にも感情の乏しい目にも、痩せた顔にも見覚えがある。
「い────」
オートバイを停めた男が駆け寄ってきた。
「痛かったですか?! ほんとにごめんなさい! 診察してもらいましょう。あ、警察にも連絡しないと!」
脊髄反射で春樹が首を横に振る。
「び、びっくりしただけです。大丈夫ですから、警察なんて、そんな」
「だめですよ。あとから腫れるかもしれませんし。車椅子借りてきます!」
病院に走ろうとする男──革ジャケットにジーパンの井ノ上を、春樹が呼びとめた。
「待って! 音がしなかった。押してただけなんでしょ? いきなり前に出たのは僕です。大げさにしないでください」
総合病院の真ん前で起きた騒動に、接触事故と勘違いした野次馬が集まり始める。
目だけで探ると、粥川が背を向けて歩いていくところだった。
春樹は謝り続ける井ノ上を、おろおろと制した。粥川が見えなくなったことを確認して小声で言う。
「やめてください。ちょっと触っただけだって、あなたが一番わかってるでしょう」
井ノ上が一旦顔を上げる。大したことがないと判断した人々も離れていく。
時折おじぎをしながらも、井ノ上は春樹の呼びかけに従わなかった。オートバイに向かう井ノ上を春樹が小走りで追う。
「待ってください。あなたがどうして病院にいるんです」
「腹痛です。東京に詳しくなくて、町医者がわからなかったものですから」
バックミラーに井ノ上の顔が映る。高岡とは違う意味で目が怖い。暴力団関係者だった須堂に似た目でもない。
感情を胎内に忘れたような、意思というものを感じさせない目──
「先ほどは失礼しました」
冷静な声と共に、井ノ上が両手を差し出してきた。折りたたまれた紙幣を持っている。
「いえ……何ですか、それ」
「クリーニング代です。ズボンを汚してしまったので」
言われてふくらはぎを見てみた。オイルがまじったような土汚れが数センチ付いている。
「要りません」
札がよぎった。と思う間もなかった。シャツの胸ポケットに違和感がある。
恐る恐る取り出したものは、井ノ上が持っていた一万円札だった。
「困ります……!」
「受け取ってもらわないと、おれも困るんです」
紙幣を投げ返せないまま立っている春樹をよそに、井ノ上は後輪のあたりからヘルメットを取り外した。フルフェイスのヘルメットを被り、皮手袋をはめる。サイドスタンドが上げられた瞬間、春樹は井ノ上の腕をつかんだ。
「さ、さっき僕と一緒にいた人に用があるんですか?」
井ノ上が自分のあごに指をかける。側頭部を支点に動くようになっているのか、ヘルメットの下半分が頭上にスライドした。無表情な目で春樹を一瞥する。
「おれは磯貝が命じること以外しません」
抑揚のない声が春樹の手を離させた。井ノ上がヘルメットの可動部分を下ろそうとする。
今を逃したら訊けるときがない。
「高岡さんは、磯貝さんの何なんですか!」
無情にもエンジンがかかる。井ノ上のあごがヘルメットで隠れる直前、耳慣れない言葉が返ってきた。
「傀儡です」
腹など痛くなさそうな井ノ上がシートにまたがり、前傾した姿勢をとる。春樹は棒立ちでつぶやいた。
「かいらい……?」
車高の高いオートバイが見事な排気音をあげる。
陽光を受ける黒い車体は、獲物を追って疾走する豹に似ていた。
< 第五章・3へ続く >
【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第五章・3のupまでお待ち下さい。
井ノ上の単車はカワサキの D-TRACKER X がモデルです。
男はカワサキ、なんて言葉がありましたね。今もあるのでしょうか。
ヘルメットはフリップアップ式のものにしました。便利そうなので…。
お節介な調教師はプライベートでナニしてるんでしょう。
大の男が一緒にホテルから出てきても、ナニとはかぎらないですね。
だからナニって何なんだ! ですけれど(笑)
専用目次へ