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第一話・焔 第五章・2
水曜は午前中から塾に行った。
長い休みになると学習塾は一日じゅう開いている。決められた曜日以外も来ていいと言われていたが、あえて水曜にしか通わないようにした。生活にリズムをもたせるためと、自宅で自習する習慣をつけるためだ。
分数や図形問題のプリントが入ったバッグを肩から提げ、帰りのバスに乗る。斜め前方の席に女性が座った。手首にギプスがはめられている。
春樹は何げなく路線の表示プレートを見た。停留所のひとつに総合病院の名が入っている。
(え、あの病院)
停留所名の一部になっている病院は矢田の入院先だった。春樹が降りる駅より都心寄りに位置している。
病院に行ってみようと考えている自分に気づき、かぶりを振った。
矢田は春樹を振り切ったことがある。話せば楽になると茶に誘った春樹に、今度会ったらぶっ殺すと言ったのだ。
病院内に入ることができても面会はできない。行くだけ無駄だ。
塾帰りに降りる駅が見えてきた。春樹は迷いを消せないままバスターミナルをやり過ごす。
矢田は何を望むのだろう。心を許す人が訊けば話すのか。話したところで解決する問題かもわからない。
わかるのは、瀕死の状態に陥っても打ち明けられないものがあるということだ。
根っこが解決しないかぎり矢田は愚行を繰り返す。男娼である春樹には理解できる。
体を売るなんて最低の仕事だ。反面、上客につけば短期間でまとまった金品を得られる。
今回の事故で社は矢田を見切るだろう。矢田は怖いくらいに端麗だ。痛手を負っても障害が残らなかったら?
二度も助かった事実から、自分には運があると思ってしまったら?
矢田がまた三浦に会うのは想像に難くない。
胸がじりじりしてきた。三浦は爬虫類のような男だ。激昂しやすい性格で、実家の支えがあれば何をしても許されると思っている。生きた人を四年間も檻で飼っていた。
会わせてはならない。まだ若い矢田を、人を人とも思わない男の玩具にしてはいけない。
ギプスの女性が降車ボタンを押す。春樹は窓に顔を寄せ、迫る総合病院を見据えた。
病院の敷地に入る前に携帯電話を出した。電源を切って深呼吸する。
社に何を訊かれても知らぬ存ぜぬで通す覚悟はできていた。武者震いをおさめたい。
正面玄関につながるスロープの手前に石垣があった。さして高くないもので、人が座ることを想定してか上辺が平らに加工されている。石垣の植え込みと木で陰になっており、いくらか涼しそうだ。
春樹は一分近く石垣に座ってから病棟を睨んだ。
「……行こう」
面会できないと稲見が言っていたのは一昨日だ。今日は会えるかもしれない。
スニーカーの先を人影が覆う。斜め前に立つ中肉中背の男を見て、春樹の血が凍った。
「粥川さん……!」
私服の粥川が立っていた。両手をスラックスのポケットに入れ、えくぼのある笑顔を傾ける。
「お体の具合が悪いのですか? 病院なら社が推奨するところがあります。送りましょうか」
ハイネックのカットソーが妙にストイックだ。気持ち童顔に見える笑みが凶悪な本性を塗り潰している。
「どこも悪くありません。歩いてたら暑くて、涼んでただけです」
「そうですか。安心しました」
スラックスから右手が出される。たじろぐ春樹の鼻先で、粥川が右手を開いた。
手の平には小型の万力に似た工具があった。粥川の笑顔が気さくなものになる。
「あなたは歩くことが趣味ですか。僕は自転車に凝っていた時期がありましてね。チェーンを手入れする際、古かったり傷が付いている箇所は切るのですよ。これを使って」
風が木の枝を揺さぶった。葉陰が粥川の全身にまだら模様を作る。
腹の底に冷水でも溜まったようになり、春樹の口がわなないた。
「チェーンを……修一の自転車のチェーンを切ったのは、やっぱりあなたなんですね。どうして……!」
粥川はにこやかに微笑み、工具を持つ手をポケットに入れる。
「何のことでしょう。僕は昔の趣味を話しただけですよ」
断りもなく粥川が春樹の隣に座った。スロープを歩く患者を目を細めて見やる。
「どうして、とおっしゃいましたね」
急に声音が変わり、春樹は恐怖して粥川を見た。えくぼがくっきりしている。
「三浦様のためですよ」
夢物語でもみているような、恍惚とした表情になってくる。声のトーンも高い。
「以前も言ったでしょう。三浦様の恩に報いるためなら、僕はどんなこともいとわない。三浦様のお望みになるものは、すべて捧げる所存です」
強くなった風が木の葉を舞わせた。葉が顔を打ち、春樹は思わず目をつぶる。
葉を避けようと上げた手が何かにとられる。ハッとして目を開けた。
粥川の片手が春樹の手をつかんでいた。目前に軍鶏の瞳があった。
「三浦様の遊び相手が減っては困るのですよ。そんなことになれば僕は冷静でいられなくなる。あなたの大切な先輩に何かしてしまうかもしれない」
口の端を高く上げた粥川が、つかんでいた春樹の手に硬質なものを握らせた。
見て確認するまでもない。チェーンを切るための道具だ。
「どうか……してる……」
春樹は震える言葉を絞り出し、粥川の手を振りほどく。
「三浦様に提供したすべての人に口止めできると、本気で……? 言う人がいなくても調べればわかる。こんなことが明るみに出ればあなたの人生はどうなるんです。会社もクビになって、めちゃくちゃになりますよ」
乾いた笑い声がした。
頼むよ、といった顔で粥川が目を閉じる。眉尻と目尻が下がり、ゆったりと脚を組む。
「あなたも面白い人だ。僕が解雇される理由があるなら、教えてほしいな」
春樹は血の気が引く音を聞いた。
社員を切るには相応の理由が必要だ。退職せざるを得ないよう仕組んだとして、粥川も黙ってはいまい。
肩を揺らす粥川が斜め下から春樹の顔をのぞき込んできた。
「察していただけましたか。まあでも、そこは大企業。地方の支社に飛ばされる可能性は少なくない。寄らば大樹の陰。できれば僕も本社にいたいのですよ」
違法な接待が白日の下に晒されないために、社は稲見や粥川といった特殊な社員を下手に追い出せない。傘下に置き、終始味方でいさせる必要があるのだ。
春樹はありったけの力で平静を装い、手を開いた。新田の自転車を傷つけた忌々しい工具を返す。
「お返しします」
そう言って石垣から腰を浮かす。粥川は柔和そのものといった顔をこちらに向ける。
「僕が持っていていいのですか?」
「あなたのものです。僕には自転車の趣味もありませんし、余計なことは話しません」
えくぼを刻む顔のまま、粥川が目を眇めた。膝に手を置いて立ち上がる。
「賢くなられましたね。それでは僕も、新田修一に近づかないようにしましょう」
粥川がずいと前に出る。
気圧されまいとするのだが、春樹は後ずさっていた。
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