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第一話・焔 第五章・2


 総合病院の待合室は薄暗かった。自動ドアが開く音が大きく聞こえる。
「春樹くん……来てくれたのか」
 ドアに近い長椅子から稲見の声がした。髪を押さえ、憔悴した様子で立ち上がる。
 照明が不十分なためか、疲れが何倍にも増して見えた。
「座ってください。あの人の容態は……?」
 容態という言葉が胸を突いたらしい。稲見はひたいに手をやって、腰を下ろした。春樹も稲見の横に座る。
「ひどく殴られたようで、一度も意識が戻らない。戻るかどうかも……わからないそうだ」
 稲見が正面入り口を見た。誰かが出入りするたびに顔を上げ、数秒かけずにうつむく。
「殴られたなら、その」
 接待仕事を熟知する医療機関なら、事件性が疑われる怪我も普通の外傷として扱う。通報しないようになっていた。
 伊勢原に陵辱されたときに受診したような、社の息がかかった病院なのだろうか。ここも。
 緊張の面持ちに気づいたのか、稲見が小声で大丈夫、と言った。
「上層部が手を回した。警察沙汰にはならないよ」
 稲見が膝に肘をついて両手を組む。組んだ手にひたいを乗せ、かすれ気味の声でつぶやいた。
「いったい……何が……」何かにすがりたそうな目がこちらを見る。
「本当に怒らない。叱ったりしないから、あの子と何を話したか教えてくれないか」
 胃が見えない手でつかまれる。嫌な汗が流れそうだ。
「あの人、具体的なことを話さなかったんです。怪我のせいで苛立ってたみたいで……」
 春樹はついと立ち、頭を下げた。
「力になれなくてごめんなさい。飲みもの、買ってきますね」
 呼びとめようとする稲見を残し、壁際にある自動販売機に向かった。








 紙パックの飲料をふたつ持って長椅子に戻り、稲見にコーヒー牛乳を渡す。
「缶コーヒーが見当たらなくて。甘いと思いますけど、飲みましょう」
 言いながら、イチゴ牛乳にストローをさした。幼稚と思われてもいい。甘いものは色々なものをほぐしてくれる。
「担当社員さんは来ないんですか?」
 稲見はうなずき、あきらめ顔で笑った。
「連絡したんだけどね。まあ、土曜の夕方だから」
 送迎の仕事で忙しい時間帯ではある。しかし、顔くらい見せてもいいのではないか。十中八九乱暴を働いたであろう三浦もだが、男娼の担当社員にも憤りを覚える。
 コーヒー牛乳の香りがした。稲見が数回咳をする。
「怪我した子……矢田健介(やだけんすけ)という子でね。話し好きで友人も多かった。店の子ばかりだけど」
 男娼、いや、矢田は社専属の接待要員ではない。男相手の売春を斡旋する風俗店のボーイだった。
「自宅アパートの廊下で倒れていたそうだ。住人が救急車を呼んだ」
「廊下……って、そんなところで殴られたんですか?」
 稲見が首を横に振る。床を見る目がうつろだ。
「そのへんのことは、本人の意識が戻らないとね。腰から下が室内にある状態で倒れていたらしい」
 外に出て助けを呼ぼうとしたのか。どれほど痛かっただろう。怖かっただろう。横で稲見がため息をつく。
「社に掛け合うこともできた。僕が話を聞いていれば────」
 一時しのぎだと、稲見もわかっているはずだ。矢田は前にも頭を打って入院している。又貸し事故の当事者だ。
 いわくつきの商品を使う社ではない。稲見自身も言っていたように、店を通して働くほうが現実的なのだ。
「きみは帰りなさい。来てくれてありがとう」
「これ飲んだら帰ります。稲見さんも風邪が治ったばかりですから、長居はよくないと思います」
「……そうだね」
 コーヒー牛乳を飲む稲見をうかがう。急に年を取ったように見えて、春樹はイチゴ牛乳を音をたててすすった。
 慇懃無礼な稲見のほうがいい。今だけはそう思えた。


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