Cufflinks
第一話・焔 第五章・2
学校に着いたのは七時過ぎだった。フェンスの外から校庭をうかがう。
高岡の要らぬ行動とは無関係に春樹は沈んでいた。新田に電話せず来たうえに、生徒手帳を忘れてしまった。
部活動に励む生徒であっても、学校の敷地に入るには生徒手帳の提出を義務づけられている。毎日の練習が必要な部員でも例外はない。校庭の掃除と花の世話をするだけの春樹が入れる可能性はないのだ。
春樹はあきらめて学校の外周を歩いた。もしかしたら新田と会えるかもしれないと思いながら。
会ってどうする。英語の塾と予備校で忙しいのに、邪魔する気か。
帰ろうと決めて背を向けた春樹の耳に金属音が届く。新田が勢いよくフェンスをつかんでいた。
「春樹! どうして入らない?」
「生徒手帳、忘れちゃって」
「慌てたのか? これ片づけたら終わるから、そこにいてくれ!」
新田の笑顔がまぶしい。笑顔を返したものの、春樹はいたたまれない気持ちで突っ立っていた。新田がつかんでいた金網に触れるのがためらわれる。
用具倉庫から新田が出てくる。ジェスチャーでそこにいろ、と示してから、明るい笑顔で通用門に走っていく。
校外に出てきた新田は一度もとまらずに春樹のもとへ駆けてきた。このあと塾か予備校へ行くのだろう。ナイロン製で大きめのバッグを持っている。
「会えてよかった。時間あるか?」
うなずく春樹の右手が、新田の左手にとられた。
「先輩……! 見られる」
夏休み中とはいえ生徒はいる。今も運動部の生徒が学校の外周を走っていったところだ。
「誰か来たらすぐに離す。少しつき合ってほしい。暑いのに悪い」
皮膚の厚みも荒れた感じも、いつもの新田だ。ほっとできる体温も。
学校から一番近い信号に着くと人が増え、新田の手が離れた。最寄り駅の裏を都心とは反対側に歩いていく。
これまでも線路沿いを進むことはあったが、逆方向へ行くのは初めてだ。
時おり吹く風を楽しむように新田が目を閉じる。ネクタイをゆるめる仕草が春樹をときめかせる。
「そこを左に行くんだ。すぐ着く」
ふたたび人の往来が少なくなり、新田に手を引かれた。
線路と平行な道が枝分かれしている。左に伸びる細い道を進むと古い鳥居が現れた。
「神社……?」
「木陰が多くて涼しいから、時間があると寄っていくんだ。塾に行く前に」
はるか向こうに住宅街を望む神社は、そこだけが小さな異次元に思えた。鳥居が暗い口を開けている。
「薄暗いね。うっそうとしてる」
「剪定が甘いみたいだ。おかげで日光がかなり遮られる」
いたずらっぽく笑う新田に先日の影はない。ふたりで鳥居をくぐり、石畳からそれて社務所から離れた一角へ抜ける。掃き清められた土の道の奥が林になっていた。木々が傘をさしているようだ。緑が深い。
「足もとに気をつけろよ」
木の群れに分け入る。小枝が鳴る音が耳のすぐそばでする。線路からの距離はそれほどでもないのに、静寂が占拠していた。大量の常緑樹の葉が熱を遮断して、汗がたちまちのうちに乾いていく。
「涼しい……気持ちいい」
新田に続いて一段低くなっている箇所へ踏み込む。斜面で足をとられそうになり、新田にしがみついた。
春樹を受けとめた新田の背が一本の木に当たり、若々しい葉が落ちた。
「ごめん! 痛かった?」
新田が笑みをたたえて春樹を見つめる。髪に指を差し入れてくる新田は、どこも痛そうに見えなかった。
「痛かったって言ったら、何してくれる?」
「な、なにって……痛いの?」
髪に触れていないほうの手が春樹の背中にまわった。
茶色の瞳が、熱くなっている手が、キスを望んでいると悟らせた。
「ここで……?」
待ちきれないといったふうに体を引き寄せられた。重なる唇が熱い。背中にある手が腰へと下りていく。
脇腹を撫でられ、枷があっけなく外れた。音をたてて唇が離れる。耳もとで新田の声がした。
「好きだ、春樹。毎日会いたい。ずっとこうしていたい」
「しゅ、う……ん」
とろける、としか形容できない口づけだった。特別な技巧があるわけではない。舌も深くでは絡まない。
体と心の深部から力が抜けていく。新田はこんなにキスが上手だったろうか。
「っふ……あ……!」
女の子みたいな声が漏れてしまった。新田は唇を執拗に追わず、頬にキスする。
耳の下にも、首の──見えるところにも。
「かわいい……お前しか見えない」
これ以上続けたら下半身に血が集まる。わかっていてもとめられなくなっていた。
「もっと……」
自分から口を開いた春樹がキスをねだる。新田は深く応じた。舌が舌を愛撫するたび、声が出そうになった。上唇の裏を舐められると下腹が疼く。息が苦しくなる一歩手前で熱が去った。
春樹は鼓動が鮮明に聞こえるほど新田にしなだれ、日焼けした腕をつかんだ。
「怒ったか? 春樹」
新田にしがみついたまま首を横に振る。ふたりとも吐息が熱い。
少しのあいだ春樹を見つめていた新田がしゃがんだ。地面に置いたバッグのファスナーを開ける。
大事そうに取り出したものを春樹の手に乗せ、ささやくように言った。
「俺からのプレゼントだ」
贈り物用の包装だとわかる、スカイブルーの袋が目に美しい。
「開けていい?」
穏やかな笑みが返答だった。包みを開いた春樹の声が弾む。
「あ……これ……!」
素朴なテーブルクロスだった。テーブル全体を覆う大きなものではない。センタークロスやセンターランナーなどと呼ばれる、卓の中央を飾るクロスだ。
布の四隅に刺繍が施されている。清楚なキキョウの花が咲いていた。
「お前の部屋、台所のテーブルがガラスだろ。洗練されてるし、あの部屋には合ってると思うけど……」
「冷たくて落ち着かない?」
「……ああ。ごめん」
春樹が新田の胴に腕をまわす。喉の奥から熱いものが上ってくる。顔を見られないよう、極力新田に密着する。新田はふたたび幹に背を当てて春樹の髪を撫でた。優しい手に春樹は自らの手を重ねる。
「謝ることないよ。僕も冷たいと思う。刺繍、お母さんがしてくれたの?」
「いや。注文できるようになってた」
「注文なら高いんじゃ」
「高くない。バイトする前から決めてたんだ。色々探して」
ありがとうと言おうとしたら、唇に新田の人差し指が押し当てられた。
「買うとき、迷った。お前はお母さんを写真でしか知らなくて、お父さんには別の家庭がある」
春樹が持っているセンタークロスごと新田にかき抱かれた。一瞬、息がつまる。
「部屋を家庭的にしても家族と触れ合えるわけじゃない。俺のすることは押し付けになるのかもって、いつも思う……わからないんだ。お前が本当は、何を必要としているのか」
心臓が大きく打つ。気取られないように少しだけ体を引く。
新田は見抜いているのではないだろうか。春樹の気持ちが、一度は高岡に向きかけたことを。
「僕が好きなのは」
新田の二の腕をつかんで力をゆるめさせた。素直に抱擁を解く新田を見上げ、目を閉じる。
「好きで必要としているのは、修一だよ」
唇にやすらぎが戻る。互いの唇を食む口づけを交わした。
刃物傷のない、庭仕事を愛する手に指を絡ませる。
血の色をした鏡など作らない手に、高岡を忘れさせてと願った。
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