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第一話・焔 第五章・2


 翌朝の目覚めはすっきりしていた。薬で記憶が抜けたことも気にとめることなく、テレビで天気予報を見る。
 台風が接近しているためか最高気温が三十度に達しないようだ。夏休みに入ってから一度も学校の花壇の手入れをしていない。早朝の掃除もしなくなってだいぶ経つ。
 リビングの時計は六時前だ。新田はこの時間、起きていることが多い。今日の水やりと掃除は春樹がひとりですると連絡しよう。連日の塾通いに加えて予備校も始まったのでは疲れもたまる。
 新田の番号を表示させる直前、携帯電話が震えた。心当たりのない番号が画面をスクロールする。少し警戒して通話ボタンを押した。無言で電話機を耳に当てる。
「……春樹ちゃん? 起こしてしまいましたか?」
 体じゅうに血が巡り、飛び上がりそうになった。朝陽がきらびやかすぎて視野がぼやける。
「竹下さん!!」
 もう十年くらい聞いていなかったのではと思えるくらい、目の奥に熱がたまる。喉がつまって涙が転がり落ちた。
「竹下さんっ! ほんとに竹下さんなの……?!」
 隠せない涙声が竹下の感情を揺さぶったらしい。電話の向こうから洟をすするような音が聞こえた。
「ええ、ええ。竹下ですよ。ごめんなさい、こんな早くに。寝ていらしたのでは」
「さっき起きたとこ。竹下さんこそどうしたの? 朝ご飯の用意はいいの?」
 竹下は南房総にある彫刻家のアトリエ兼自宅で働いている。食事を用意しなくていいのだろうか。
「今日からしばらくのあいだ、ここにはわたしだけです。毎年この時期、バカンスに行かれるのですよ。八月に入ると二、三週間ほど。無人にするわけにはまいりませんので、わたしも先の週末、弟の墓参りに行ってきました」
 ちょっと待ってくれ。
 先の週末? 八月最初の週末──?
「そんな……! 教えてくれたら会えたのに!」
 叫ぶように言ってしまい、電話機から伝わる沈黙に気づく。
 八月には竹下の弟が亡くなって初めての盆がある。働きやすい職場であっても、竹下は家政婦だ。雇い主の休暇の影響で休めないから時期をずらし、おそらく日帰りで上京したのだろう。
 第一、会ってしまえば思慕の念が強くなる。竹下にもつらい思いをさせる。
「ごめんね……子どもみたいなこと言って」
「いいえ。お元気そうでよかったです」
 今までも電話できたものを、竹下は我慢してくれていたのだ。少し頭を働かせればわかる。
 自分のことばかり考える春樹の耳に、思いもかけない言葉が飛び込んできた。
「こんな時間にお電話したのは、気になることがあるからなのです。少しでも早くお訊ねしたくて……」
「時間はいいけど、気になることって?」
「学校のアルバイトをなさったそうですね。学習塾にも通われているとか」
「え。稲見さんから聞いたの?」
「織田沼様とおっしゃる方です」
 あまりにさらりと返されたため、誰のことかわからなかった。
 織田沼とは、高岡の父の姓だ。
「お、織田沼って、そう名乗ったの?!」
「はい。確かにそう名乗られました」
「その人、どんな見た目だった? 背は高い? 低い? 瞳や髪の色は?」
「背の高い方でした。サングラスをされていたので瞳の色までは……髪は黒くて……ああ、いい香りがしていましたよ。男の方なのですけれど。素敵な声の方でした」
 同姓の別人ではないようだ。何が目的で竹下を訪ねたりした。あの調教師は。
「何なんだよ……勝手に行くなんて……!」
 通話口を手でふさぎ忘れた。取り繕う間もなく、竹下の心配そうな声がする。
「あの方はどういった方なのですか? 先月来られて、春樹ちゃんの様子が書かれた手紙を下さったのです。内密にとおっしゃいますのでお名前だけでもとお願いしましたところ、織田沼と申します、とだけ。会社の方ではないのですか?」
 どう言えばいい。春樹の知らないところでこそこそ動き、言い訳の火種ばかりこしらえる男のことを。
 いっそイヌの調教師と言ってしまおうか。
「あの……春樹ちゃん……?」
「会社の人だよ」
 口裏を合わせるのは後回しにした。多少は上達した嘘を組み立てるしかない。
「父さんの派閥の人なんだ。父さんもしょっちゅう僕を気にしてたら、抵抗勢力から足をすくわれるでしょ」
「春樹ちゃん。そのような言いかたはいけませんよ」
 たしなめる声が厳しくない。竹下も本心から父をかばおうとはしないのだろう。
「た……織田沼さんは信用のおける人らしいから、僕の近況をこっそり伝えるように頼んだんじゃないかな」
 疑うかと思いきや、竹下の反応は意外なものだった。
「あの方なら、お父様もご信頼なさるでしょうね」
 思い出し笑いだろうか。竹下がくすくす笑っている。
「邸の主人に散歩の習慣があることをご存知だったようです。わたしがひとりでいるときにいらっしゃいました。お調べになったのではないでしょうか」
 用意周到だからね、と言ってやりたい。口の横がひくりとした。
「そう……かもね。あの人、仕事はできるみたいだから」
「少し冷たい雰囲気の方ですが、わたしの体調まで気にかけてくださいました。お礼を伝えていただけないでしょうか」
 返答がわずかに一秒遅れた。胸と胃のあいだが熱をもっている。
「伝えておくよ。それで、あの、織田沼さんはいつそっちに行ったの」
「先月の……二十六日です。日曜日でした」
「日曜日……」
「ええ。間違いないですよ」
「そ、そう。僕は元気だからね。心配しないで。夏休み中に行けるといいんだけど」
「ありがとうございます。来ていただけたら嬉しいですが、ご無理なさらないでください」
「……うん。いつでも電話して。僕の携帯電話、番号変えない……から……」
 言葉の最後が頼りない。何かを追想するように、尻切れトンボになってしまった。
「春樹ちゃん?」
「ごめん、何でもない。今日は切るね。体、大事にしてね」
 もっと話したい気持ちを押し殺し、電源ボタンを押した。カウチソファの上で膝を抱える。

 『機種変更をしても番号は変えずにいろ』

 高岡が竹下を訪ねたのは先々週の日曜。新田がこの部屋の寝室で豹変した日だ。
 インターフォンを通した高岡の声は歯切れが悪かった。肝心なことを話せないでいるようだった。
 竹下が元気でいると伝えたかったのだ。それだけのために、わざわざここに寄った。
 母代わりだった人の名を出せば、春樹が新田を残して一階に下りてきてしまうかもしれない。
 だから伝えず、携帯電話を紛失するなと言った。番号は変えずにいろと。
 引っ越した以上、竹下が春樹に連絡できる先は携帯電話しかない。つなぐ糸を切るなという意味だったのだ。
 夏休みは時間がありすぎる。竹下を想って落ち込ませないようにするには、元気だとわからせればいい。
「房総半島まで……行ったんだ」
 商品の心を平穏に保つためなら竹下に会う必要はない。働く姿を確かめるだけで済む。
 済むところを、高岡は直接会って手紙を渡した。春樹の近況を知った竹下は安心し、同時に疑問が生まれる。
 あの男は誰だと質問するきっかけができる。つまりは竹下に、春樹の声を聞く機会を与えた。
 商品だけ気にかけていればいいものを、どこまでお節介なのだろう。
 どうすれば忘れさせてくれるのだ。
「放っておいてくれよ! 好きでいさせないで……! お願い──!」
 春樹はクッションで頭を覆い、ソファの隅にちぢこまった。


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