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第一話・焔 第五章・2
帰宅したら仕出し弁当が届いていた。弁当をダイニングテーブルに置いて六畳間に入る。
学習机の引き出しからアルバイトの給料袋を出し、パスケースを買っても一万円近く余った現金を机に広げる。
人に堂々と話せる労働で得た金だ。この金から新田への贈り物を買えたことは何より嬉しい。
嬉しさと反比例する、重いため息をつく。
引き出しの奥には十万円分の旅行券や五十万円の現金がある。さらに百万円を預け入れてある銀行口座の通帳もあった。全部、塔崎が春樹に惜しげもなく与えたものだ。
体験アルバイトは所詮、体験だった。血反吐を吐く思いなどせず、できない仕事は誰かが代わってくれた。
花の名前を覚えたくても園芸書を買わなかった。アルバイト以降どこの花屋にも行っていない。公園を歩けば草木の名や簡易な説明を書いたプレートがあるのに、暑さを理由に読もうとしなかった。
知ろうと思うだけで何もしない。方法はいくらでもあっても実行に移さないという事実が、今の春樹にある覚悟なのだ。
縁遠い桁の数字が印字されている通帳も、微妙な厚みの封筒も、芝居の小道具か何かのような気がしてくる。
銀行家の囲い者になろうとしている男娼の部屋にふさわしい、チープな装飾品だ。
「嫌だ────」
負の感情は口にすると根を張る。鉤爪が生えた長い根が、深みへ、弱い心の底へと入り込んでくる。
気がつくと学習机の引き出しをまさぐっていた。留め金が壊れたカフスボタンを握る。
生理的に受け入れがたいときがあっても、塔崎は良い客だ。春樹の肉体を傷つけることなく援助してくれるだろう。
給料をかき集めて袋に入れる。袋を握って目を閉じる。
逃げられないのだろうか。
高校を退学しても生きていける。現に瀬田はそうしているではないか。
「生きていける……?」
失笑した。書店で居合わせた人の香りを高岡の香りと間違え、うろたえ、園芸の本を放ったのに?
たかが数日のアルバイトでいい気になるな。大学を卒業しても就職難なのだ。高校中退では就ける仕事も限られる。
給料袋が重い。一万円に満たない現金が、とてつもなく重かった。
ローテーブルの振動が長く続いた。春樹はかすむ目をこすり、携帯電話を開く。
「…………はい」
「あ、春樹くん! どこかで遊んでいるのかい、こんな時間まで」
こんな時間と言われて時計を見た。瞬時に飛び起きた。
────つもりだった。体が言うことをきかない。マンションが鉄筋ごと揺れている。
地震速報を見ようとリモコンを取ったら、前頭部をローテーブルにぶつけた。
どこもかしこも力が入らない。見るものすべてが回転する。携帯電話も落としてしまい、ソファの縁に寄りかかった。
強烈なめまいをおして電話機に手を伸ばす。目の端がとらえたものをぼんやり見ながら、すみませんと言った。
「アルコールでも飲んだような声だよ。大丈夫なのかい? 今どこにいるの」
「どこって……家です。自宅……」
ローテーブルに空のコップがある。確か、給料袋をしまってから水道水を飲んだ。
コップの横にある、クリニックで処方された精神安定剤と一緒に。
「本当だろうね。何度か自宅にもかけたんだよ?」
稲見の言葉が右から左へ抜けていく。
薬が三錠なくなっている。飲んだのは学校の最寄り駅で高岡に暴言を吐いた日と、今日だけだ。
今日は二錠飲んだ。なぜ飲んだのだろう。十一時半になるということは、四時間近く眠っていたのか。
飲んだ動機が思い出せない。今日は楽しいことしかなかったはずだ。
森本と、瀬田と、瀬田の弟たちがいた。皆で花火をした。護が可愛かった。春樹の横で小さい花火を持っていた。
あれは何といった? 儚く爆ぜる、溶鉱炉みたいな色をした花火……。
「春樹くん! しっかりしなさい!」
頭のなかで丸い火が落ちた。
夢とうつつのあいだを泳いでいた春樹が覚醒する。携帯電話をしっかり持ち、めまいに気をつけて立ち上がった。
リビングの電話で着信履歴を確かめる。
稲見の言うとおり、数回に渡って会社携帯から電話があったようだ。最初の着信は午後八時過ぎになっている。
「何かあったのかい? 受診が必要なら」
「なんでもないです。うたた寝のつもりがぐっすり眠ってしまったみたいで……お酒も飲んでません。今、自宅の電話を見てます。八時からかけてもらってたんですね。気がつかなくてごめんなさい」
自宅電話の履歴を見たのは正解だったようだ。稲見が安堵らしき息を吐く。
「頼むよ。矢田くんが意識を取り戻したのに、きみまで何かあったら」
矢田の名が出て、春樹の目は完全にさめた。
「意識が戻ったんですか、矢田さん!」
無性に外の空気が吸いたくなり、ベランダに出た。窓を開けるのがもどかしい。矢田がいる病院はどの辺だったろう。
「予断を許さないんだ。面会はできないし、事故の核心も話さない」
春樹は小首をかしげる。二度も大怪我をして黙っている理由は何だ。弱みを握られているのだとしても、頑なすぎる。
今回の怪我では意識がなくなったのだ。死にかけても守りたいものなんて、そうあるものではない。
「病院に駆けつけてくれたきみには知らせたくてね。あと数回電話して出なかったら、きみの部屋に行こうと思ったよ。夏休みまであれこれ言いたくないけど、健康第一だと自覚してもらわないと」
「気をつけます。本当にごめんなさい」
遠くからエレベーターの音がした。大きな病院のエレベーターがとまる音に似ている。
「稲見さん、病院にいるんですか? 矢田さんのところ……?」
「僕のことはいいから。とにかく暑いからって、うたた寝はだめだよ」
慌てたように電話が切れる。見上げた夜空に光があった。白い灯りが闇を滑り、飛行機の航空灯だとわかる。
「……線香花火」
ぽたりと落ちた花火の名称を思い出した。ベランダの窓を閉めて施錠する。
処方薬をゴミ箱に入れようとして思いとどまる。二錠で花火の呼び名を忘れさせる薬であっても、必要だから出されたものだ。銀色に光るシートを袋に戻した。前回処方された薬と共に寝室のサイドテーブルにしまう。
飲まなかった薬物を捨てずにおく。一度に一錠と決められたものを二錠服用する。
そういった行為がどのような結果をもたらすか考えるより、眠気が勝った。
寝支度もそこそこにベッドにもぐり込む。未熟で浅はかな頭のまま、睡魔に身をまかせた。
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