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第一話・焔 第五章・2


 八月最初の月曜は、夕方になっても三十度近い気温を保っていた。
 瀬田一家が住むアパートの裏手に、色も様々な炎の花が咲く。
 春樹の横には今年小学生になった男の子がいる。瀬田の一番下の弟、護(まもる)だ。春樹が火をつけてやった線香花火を神妙な面持ちで受け取る。
「丹羽、すまないな。疲れるだろ」
 瀬田が申し訳なさそうに言う。四角い顔が引き締まっていた。もとから男らしい輪郭なので線の太さが際立っている。大人の男を見ているようだ。
「疲れないよ。護くん、可愛いから」
 護の花火がジジジジと鳴った。先が丸い提灯状になっている。丸い光が地面に落ちると、護は寂しそうな顔をした。
 春樹が新しい花火に火をつけて渡す。ぱっと明るくなる護に、春樹もつられて微笑む。
「疲れんのはこっちだっての! この、次男坊! じっとさせろよ!」
 瀬田家の次男、武(たけし)が火のついた花火を持って逃げまわっていた。俊足が自慢の森本も、小学校から体育が常にトップだという武には追いつけない。すんでのところでかわされ、歯ぎしりしている。
 器用に逃げていた武がつんのめった。中学二年の扱いに慣れている瀬田に、首根っこを押さえられたのだ。
「大屋さんに頼んで貸してもらってる場所だ。火のついたものを持って走るな」
 事業が廃業して自宅を手放した瀬田家は、川沿いの古いアパートで暮らしていた。目と鼻の先を車道が通り、交通量もあるため気軽に花火ができない。近くに花火を許可する公園もなく、河原は小さな弟がいるので危ない。
 そこで大家兼地主が、新しくアパートを建てるための更地を使わせてくれることになったのだ。
 肩をすくめた武が森本の隣に行く。怒鳴っていた森本も、けろりとして武と花火を再開した。瀬田が護を膝に抱く。護は瀬田の肩越しに森本たちを見た。手持ち花火に興味があるようだが、大きな火花が怖いらしい。
 月曜休みの瀬田は自宅で夕食を食べないかと誘ってくれた。断ったのは森本だった。
 瀬田は一学期の終業式を最後に退学して、トンカツ屋で立ち仕事をしている。せっかくの休みに余計なことをさせたくないという、森本なりの気遣いだった。護をあやす瀬田が春樹に微笑む。
「おれ、今の店で社員を目指そうかと思うんだ」
「社員……瀬田くんがトンカツを揚げるの?」
 四角い顔がうなずく。
「先月、店の親父さんが持って帰れって揚げてくれた。店で出すのと同じカツ。家で切ってもサクサクで、あったかくて。武も護も、うまい、うまいって言って食うんだ」
 護が線香花火を取ろうとする。今度は瀬田が火をつけて持たせた。
「本当にうまいんだよな。人様から金もらうカツだから。ちょっとショックだった」
「ショック?」
「お袋が作るトンカツもうまいけど、やっぱり違う。護なんか、武と同じ速さで完食した。わかるんだよな、子どもでも」
 線香花火の先が提灯になる。弾ける光が護のほやほやした手と丸い膝に映える。
「カツを持たせてくれたの、退学届が受理された日だった。金が取れるものはこういうものだ、これで食べていけって、親父さんの声がした。実際は何も言わないけど。こういうの、学校じゃ話しづらいから……今日はほんと、ありがとな」
 瀬田の顔が大人びて見えたのは気のせいではなかった。大人に近づいているのだ。
 いつの間に来ていたのか森本が春樹のそばにしゃがむ。調子外れの鼻歌に合わせて線香花火をつまみ上げ、一本を武に手渡した。
「お前がトンカツ揚げるようなったら、毒見にいってやるよ」
 森本の軽口に武が笑った。瀬田も笑い、兄たちの笑顔を見た護もはしゃぐ。
 春樹だけが無言で花火セットのパッケージを見た。台紙に残る線香花火に点火して護へと渡す。小さな手にゆだねた火を、黙って見続けた。
 森本は、瀬田が一人前になるまで店に顔を出さないつもりなのだ。一人前になると信じているからだろう。
(言いたいこと言えてよかったな、森本)
 すべての花火が終わり、水を張ったバケツに燃えかすが浮いた。別れ際、護が春樹から離れなくなった。春樹の脚に抱きつく弟を瀬田が肩車する。目線が高くなって護が歓声をあげた。
 夕陽が遠くのビル群に輝きながら隠れる。オレンジ色の光に縁取られた瀬田を春樹が仰ぐ。
「毒見、僕もしていい?」
「ぜひ頼む。残さないでくれよな」
 森本がにやりとする。整髪料で逆立てた髪を慣れない手つきで整えた。
「ばーか。うまく揚げれるようになってから言えっての」
 最寄り駅まで上り坂だ。春樹は森本と小石を蹴りながら歩く。
 振り返ると、瀬田と武、瀬田に肩車された護が大きく手を振っていた。


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