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第一話・焔 第五章・2


 翌日の月曜、稲見の説教はいつもより長かった。
「いつになったら自分でコントロールするの。アメリカでは専属のカウンセラーがいるビジネスマンが少なくないんだよ。ストレスを抱えない仕事は仕事じゃない、ということだね」
 春樹の前髪をカーエアコンの冷風が揺らす。正午近いから太陽も高いところにある。
「服薬後の血液検査を一度もしていないなんて。決まりが悪かったよ」
「ごめんなさい……」
 眉をしかめ、こめかみをひくつかせる稲見のトークが延々と続く。
 小言は元気な証拠と思ってみても、駐車場を出てからずっとなのでまいってしまう。
「謝る前に自己管理。ケアは自分のためなんだよ」
「はい」
「返事はいいんだよね、きみは」
 稲見に感謝していないわけではない。受診を怠けていないだろうかと来てくれなければ、春樹はクリニックのことなど忘れていた。サイドミラーに街路樹が映り込む。車が路肩に寄せられた。
「ささ、悪いけど、ここで降りて」
 信号の手前に地下鉄の駅がある。駅名から、自宅マンションより数駅クリニック寄りだとわかった。
「迎えの仕事に行かないとならなくてね。次の交差点を越えてしまうと渋滞がひどくなるから、申し訳ないけど、ね」
「は、はい」
 シートベルトを外す春樹に、稲見が人差し指を振り振り話す。
「薬はちゃんと飲むんだよ。強くない薬だからって、いい加減に扱わないこと。いいね」
「わかりました。ありがとうございます」
 ラジオをいじる稲見が片手をひらひらさせる。春樹は頭を下げ、社用車が見えなくなると口を「い」の字にした。
「なにが専属カウンセラーだよ。ここは日本だ」
 外国を引き合いに出す前に、精神安定剤を飲んで売春するという不条理を何とかしてくれ。
 歩くにしてもこの暑さだ。昨日よりは和らいでいるようだけれど、汗がとまらない。
 涼む場所を求めるうち、商業ビルに吸い寄せられた。一階のカフェが冷房で人々を誘う。
 外に張り出すテナント看板を眺めた春樹は、四階に書店を見つけた。少し考えてエスカレーターに向かう。
 アルバイトをした際、知らない花の多さに驚いた。新田に教わっておけばと思った。
(自分から知るようにしないと)
 書店には思ったよりたくさんの本があって目移りする。紙箱に入った図鑑類は高価だ。ちゃんとした図鑑は図書室で貸し出しが禁止されているため一冊欲しい気もするが、使いこなす自信がない。
 決めかねているうちに園芸書のエリアが終わった。健康に関する実用書、手芸の本、料理本と続いていく。
 不意に『南房総』という字が飛び込んできた。旅行雑誌が積まれたコーナーに来ていたらしい。
 房総半島といえば竹下の新天地だ。どうしているだろう。夏休みになったら会いにいくと言って別れたきり、連絡していない。塔崎の計らいで竹下の写真を見ただけだ。
 やにわに会いたくなった。稲見に頼めば勤務先を教えてくれるだろうか。
 『南房総』に誰かの手が伸びる。レモンの皮に似た香りがして、思わず顔を上げた。

「高岡さん!」

 大声を出した春樹を見たのは、背の高い会社員ふうの男だった。灰色の瞳でもなければ、不敵な笑みもない。カフスボタンもしていない。他人の名を叫ばれ、雑誌から手を引っ込めて目を丸くする。
「ご、ごめんなさい!」
 春樹はエスカレーター目指して駆けた。人を追い抜き、ビルが見えないところまで一目散に逃げた。
 横っ腹が痛い。街路樹の幹に体をぶつけるようにしてもたれる。
 激しい呼吸が人目を引く。目をきつくつぶり、握りこぶしでひたいを叩いた。
(また、だ。また間違えた。また)
 何度見誤れば気が済む。書店で旅行雑誌を読もうとしたのは高岡ではない。しっかりしろ。
 本屋で嗅いだ香りに、頭より体が反応した。肌になじむと丸い香りになるオー何とかも、瓶におさまっているあいだは、レモンみたいな若くて尖った香りを放つ。
 手を入れられた日の翌朝、果実の香りが高岡の自宅にあった。キスしながら耳の後ろに付けられた。
 先ほどの男はレモンの香りがする制汗剤か、軽いフレグランスを用いていたのだろう。
「会いたい……」
 誰に、が抜け落ちているつぶやきを、アスファルトを渡る熱い風がさらっていった。


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