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第一話・焔 第五章・2


 新田が寝室から出てきたのは二時間ほど経ってからだった。
「起きた? お腹減ったらトーストくらいならできるよ。おいしいものが食べたければ、デリバリーも頼めるし」
 キッチンで冷水を注ぐ春樹に、新田が青白い顔を向ける。
 帰るつもりなのだろう。パーカーのファスナーが胸まで閉めてあった。
「ごめん……人の家で変な時間に眠って。何時だ……?」
「もう少しで十時」
 新田は呆けた顔でリビングの時計を見て、まぶたを押さえた。
「……二時間も寝たのか。何やってるんだろう……ほんとに」
 水を渡しても飲もうとしない。春樹はダイニングテーブルに水の入ったコップを置き、待ってて、と言いながら六畳間に入った。ぱたぱたと足音をたててリビングに戻り、立ち尽くす新田に小さな包みを渡す。
「開けてみて」
「……これ……」
 新田の両手にあるのはパスケースだった。薄い定期入れだ。
 昨日、須堂の会社から帰った春樹は、花屋のアルバイトで得た現金を胸に抱えて百貨店に走った。
 若草色のパスケースは合皮で、洒落てもいない。散々迷い、客を送り出す曲が流れるころに決めたものだった。
「アルバイトのお給料で買ったんだ。子どもっぽい色かな」
「そんなことない。きれいな色だ。今日、くれるのか……? いいのか……?」
 春樹はうなずいて新田の手に触れる。新田は苦しそうに眉根を寄せ、下を向いた。
「俺は……取り憑かれたなんて、無責任なことを言った。受け取る資格がない」
 新田の手が強張っている。顔を上げるタイミングを逸したのか、床に目を落としたままだ。
 包みを押し戻そうとする新田を抱きしめる。驚かせないよう、包み込むように抱いた。
「修一は花畑を見せてくれた。僕がいることを神様に感謝したいって言った。今日じゃなきゃ嫌だよ。受け取って」
 最上の笑顔を新田に見せ、水のコップを差し出しなおす。
「飲んで。何も飲まないのはよくないよ」
 気が進まない様子で新田がコップに口をつけた。ひと口飲むと目を閉じた。水の甘さを知った人のように、喉仏を大きく上下させて飲みほす。空になったコップをテーブルに置くころには、新田の頬もゆるんでいた。
「来月から予備校があるし、電車移動が増える。お前がくれた定期入れと一緒なら満員電車も快適だ。ありがとう」
 瞳を探り合ってもキスの予感がない。尊敬できる新田に戻ってくれたのは嬉しいのに、足もとに穴が開きそうだった。
 春樹は新田の胸にひたいを押しつけた。新田の手がぎこちなく背中にまわる。
「だめだ、春樹。離れられなくなる……今夜は泊まるつもりないんだ、初めから」
 パーカーの下にはTシャツがのぞいており、乾いた汗が塩の結晶になっていた。
 Tシャツに顔をくっつけても汗臭いとは思わない。
「英語の塾のほかに、予備校にも行くの? 受験のため……?」
 新田は冬休みにアメリカへの短期留学を予定している。期末テストが満点でも英語の勉強量は激増しているだろう。そこへ予備校通いが加わるのだ。相当多忙になるのだと容易に想像がつく。
「受験のためもあるけど、留学する条件のひとつなんだ」
「ひとつ」
 上目使いで見る春樹の顔が、新田の両手で包まれた。
「英語以外の勉強も手を抜かない、泊りがけで遊ばない。このふたつを守らないと留学させてもらえない」
 大きな手があたたかい。新田の瞳から冷酷な光は消え失せていた。
「今夜のこと……許してくれるか」
「次に会うとき、修一が元気なら気にしない」
 新田は一瞬目を見開いた。青い顔には戻らず、はにかんで玄関に向かう。
「帰り道、気をつけてね」
 靴を履いた新田にバッグを渡す。触れた手が重なり、力を込めて握られる。下まで送ると言う春樹を新田が制した。
「気をつけるのはお前も同じだ。お父さんが考えて、しっかりしたマンションに引っ越したんだから」
 真摯な目に誘われて唇だけのキスを交わす。
「愛してる。お前だけなんだ、春樹」
「僕も……愛してる」
 ふたりの体が離れ、ドアが開き、閉じた。
 春樹は新田の足音が聞こえなくなるまで、玄関から動かずにいた。


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