Cufflinks

第一話・焔 第五章・2


 サイドテーブルにオレンジジュースのコップがふたつある。
 飲みほしたのは春樹だけだ。もうひとつのコップに口がつけられることはなかった。
 新田は服を着てベッドに横たわっていた。何度も起き上がろうとする新田を、春樹が強引に寝かせたのだ。
 脇に座る春樹の手が、ベッドカバーの上で新田の手に重ねられていた。
 エアコンの風で細かな埃が浮遊する。サイドテーブルにあるライトが新田を照らす。
「────羨ましくなった」
 春樹が寝室に戻ってから初めて聞く新田の声だ。わずかにかすれ、震えている。
「鞭なんて、普通の人は使わない。時代錯誤で……人を踏みにじる高岡さんを軽蔑した」
 励ますつもりで新田の手を握ってみた。握り返す力が弱々しい。
「それなのに、してみたいと思った。俺も自分の痕跡を残したい……そんな願望が、頭のなかに──」
 三浦の鞭傷は高岡によるものとされている。新田に痕を知られてしまった際、偶然訪ねてきた高岡が芝居を打って、自分が叱った結果だと言ったためだ。
 新田は未知の葛藤におののいている。瞳はさ迷い、手にも冷たい汗をかいていた。
「……憑かれた。取り憑かれた……ごめん。こんな日にするために、時間をつくってもらったんじゃないのに……」

 憑かれた。

 正しい人の口から聞くとは思わず、背中がぞくりとする。
 猟奇的な傷には魔力がある。
 常識とは無縁の痕は、ときに暴力の暗い影となり、また、愛のあかしにもなる。
 人の脳には動物のままの部分があるという。自らの獣性を見る前に溶鉱炉に落ちてしまう春樹にはわからない、人の手が及ばない領域が新田にもあるのだ。
 コントロールできないものをさらけ出してくれた。ほかの誰でもない、春樹に。
 愛しさに支配された。片手では足りないと、両手で新田の手を包む。
「何でもないよ、こんなこと。僕はどこも怪我してないし、修一への気持ちも変わらない」
 新田の指先が小さく動く。ずっと重ねていたのに、まだ冷たかった。
「行かないでくれ……」
「修一」
「ひとりにしないでくれ……頼む」
 眼差しが切実だった。突き放したらどうにかなってしまいそうな目だ。
「どこにも行かない。修一のそばにいる」
 安心したのか、新田が目を閉じた。
 今日という日のために生きてきたのではないだろうか。
 新田の花畑に行き、夢をあきらめないと誓う新田に新たな憧れを抱き、その新田に拘束され、今はこうして寄り添う。こんなにも新田を知った日はない。
 後悔などさせない。悪いのは仕事を隠し、あざむいて生きる春樹だ。
 つないだ手が脈打つ。不規則な拍動を忘れないように、息をこらして新田を見つめた。


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