Cufflinks

第一話・焔 第五章・2


「待っ……修一!」
 いきなり引っ張られてバランスを崩し、新田にぶつかった。
 新田の目が光っている。刃物を思わせる硬質な光に、忘れていた胃痛がよみがえる。
「高岡さんなんだろ。上がってもらわなくていいのか?」
 電話口で高岡の名を呼んでしまったため、嘘のつけない状況になった。新田の腕のなかで春樹の緊張が増していく。
「い、いいよ。たいした用事じゃないから」
 少しずつ、しかし確実に新田の腕が春樹を動けなくさせる。管井に盗撮されたときの抱擁に似てくる。
「携帯、携帯電話をなくすなって言いにきたんだよ。夏休みだからあちこち行って落とさないように注意しにきたんだ。ま、前に携帯なくして、父に叱られるのが嫌で内緒にしてたら、知らない人に使われちゃったことがあって」
 高岡が説明もせずに帰ったため、ありもしないことを言って武装しなくてはならない。
 新田が腕の力をゆるめる。ほっとしたのもつかの間、口づけをされた。
 唇の感触が違う。触れるだけでうっとりする、優しいやわらかさがない。
「俺はあの人の用件なんて訊いてない」
 抑揚のない声だった。目には冷たい光が残っている。
 荒々しさがない。抑制されすぎている。暴力的なことはしないだろうと思うものの、春樹の腰は引けていた。
「愛してる。今夜は俺のものになってくれるよな」
 春樹は小刻みに首を縦に振った。
「汗を流したいし、あれ、持ってきたい」
「あれって、ネットで買ったローションのことか?」
「う、ん……っ……!」
 首すじを吸われた。片手でシャツをたくし上げられる。
 腰を押しつけるようにしていた新田が、ひたと動きをとめた。

「あとでいいじゃないか」

 違う。いつもの新田と違う。春樹が好いている新田には、人を恐怖させる冷徹さはない。
「しゅ、修一。待って! 待って……!」
 大きな声を出しても無駄だった。新田に片方の二の腕を引かれてベッドに座らされる。上半身をねじるように仰向けにされた。シャツのボタンをすべて外され、両肩が露出する。落ち着かせようと伸ばした手をつかまれ、うつ伏せにされた。逃れようとしてしまったため、脚がベッドに乗った。
 袖がまとわりついて手が思うように動かせない。蹴ろうとしてもばたつくだけで、簡単に押さえられてしまった。
 腿の裏が痛い。膝で強く押さえつけられていた。新田の顔に笑みはなく、目はぎらりと光っている。
 刹那、ベッドが揺れた。新田がパーカーを脱ぎ捨てる。Tシャツも脱いで乱雑に放った。
 上半身裸になった新田が後ろから馬乗りになる。
「……修一!」
 新田が春樹の腕に絡まるシャツを後ろへ引いた。両手首を腰の上で交差させ、シャツの布地でぐるぐる巻きにしているようだ。
「春樹……わかってくれよ。愛してるんだ」
 大きな手が視界に入った。春樹の顔の横に片手をついた新田が、もう一方の手で春樹のアンダーウエアをめくる。
 鞭傷がさらされ、新田の指が傷を撫でた。上から下へ動く。性的な感じではない。いたわる手つきとも違う。
 醜い傷に沿うだけの動きが一変した。
 薄く、長い軌跡で残る鞭の影を、新田の爪が鋭く掻いた。
 痛いと言いそうになり、顔を枕に押しつける。中途半端に逆らえば新田も後に引けなくなる。
 背後から低い声が這ってきた。
「高岡さんはお前に傷を残せるんだな」
 頬を引きつらせた春樹が後ろを見る。鞭の傷を見ていた新田が顔を上げた。夢からさめたような顔で言う。
「どうしてそんな目で見る?」
「そんな目……?」
「怯えた目をしてる」
 自分自身の言葉が引き金になったのか、新田が傷から指を離す。
 会うたびに幅が広くなる肩が、誰かに蹴飛ばされたかのように大きく跳ねた。
「何で俺、こんな……! ごめん! ごめん、春樹! こんなこと許されない……!」
 引っくり返った声で言い、春樹の手首に巻いたシャツを解いていく。
 シャツが取り去られて腕が自由になった。急な解放に関節がきしむ。肘に痛みが走った。
「痛っ」
 ふたたび新田の肩がびくつく。唇を震わせ、茶色の瞳を激しく揺らした。
「ど、どこが痛い? 手首か? 肘か? せ……背中か」
 新田は春樹に自分が脱いだパーカーをかけた。ベッドから離れ、膝から床にくずおれる。
「ごめん……! ごめん、ごめん────!」
 床の上でひざまずき、背を丸める。前頭部が床に当たる鈍い音がした。
「ご……め……ゆる、許してくれ……」
 春樹は動揺を悟られないよう、横を向いて呼吸を整えた。
「謝らないで。もうどこも痛くないから」
 無理には微笑まず、静かにベッドに座った。肘を片方ずつ曲げ伸ばししてみせる。
「肘がちょっとだけ痛かったけど、ほら、何ともない。手首も背中も痛くないよ」
 新田がロウソクのような白い顔で春樹を見る。深く、深く頭を垂れた。
「……ごめん、春樹……できない……今夜は…………」
 春樹は自分のシャツを持って扉に向かった。へたり込んでいる新田にパーカーを羽織らせる。
「休んでって」
 下を向いたままの新田が小さく見える。
「オレンジジュース、持ってくるね」
「だめだ……とてもいられない」
 新田がよろめきながらTシャツを拾う。帰ろうとする新田の前に、春樹が立った。
「僕のことを考えてくれるなら、まだ帰らないで。少しでいいからいて」
 答えが判然としなかった。新田は何か言ったようなのだが、言葉にならない声というか、悪夢から突然放り出された人の口から出たみたいな、意味のない『音』だった。


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