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第一話・焔 第五章・2
「留学の準備だけじゃまずいから、ほかの学科も今まで以上に勉強して……それでも一日の終わりには植物に関する本を読んだ。欠かした日はなかった」
自然と視線が絡み合う。新田の目は薄暗いところでも輝いていた。
「俺の学力なんてどうってことない。出来るやつはたくさんいる。研究の道が険しいことも知ってる。だからあきらめた。植物学に一生を捧げることに、背を向けたんだ」
新田が抱擁を解いた。自分の膝に両手を置き、寝室の壁を見て続ける。
「植物学者の講義を受ける可能性に賭けて留学を決めたのも、日本の大学で植物学を専攻しなくてすむよう、吹っ切るためだった。深く学べば惹かれてしまう。挫折するなら最初から勉強しなければいい。挑戦しなければ失敗もないから。笑われたくない、恥をかきたくないという、ちっぽけな考えに縛られてた」
「でも、好きなんでしょう?」
新田の肩が動いた。聡明な顔がこちらに向きなおる。
「僕も話していい?」
ああ、と新田が首を縦に振る。
「僕が夏休みのアルバイトを決めた理由は、キクモドキだよ」
「キクモドキ……?」
「アルバイトの申請受け付けの日、友達が花壇に来たんだ。悲しいことがあって、ふさいでた。軽い問題じゃなくて……慰める言葉が出てこなかった。黙ってることもできなくて、花の名前をいくつか言ってみたんだ。知ってる花だけだけど」
夜でもセミの声がする。花畑で聞いた鳴き声より、遠慮がちに思えた。
「キク科の花をキクモドキって言った。そしたら笑ってくれた。笑って、花ってすごいって言うんだ」
浮き立つ春樹に対し、新田は何かを言いたそうな表情だ。春樹は立ち上がり、新田の両手を握った。
「小さな花に、人の笑顔を取り戻させる力がある。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。植物にかかわりたい、少しでいいから……って!」
言葉の終わりは驚きの口調になった。新田に抱き寄せられたからだ。新田の膝のあいだに春樹が立つ格好になる。
春樹を仰ぐ新田の顔が紅潮していた。
「わかるのか、お前にも。植物がもつ力」
春樹は新田の手をとって上下に振り、頬にキスした。
「植物学者になれなくても、修一の努力を知る人なら笑ったりしないよ。万が一誰かが笑ったら、僕が叱りつけてやる」
数秒後、ふたり同時に吹き出した。あはは、と笑う新田が愛しい。嬉しさがこみあげ、新田にもたれかかった。新田がふざけた調子で「うわあ、重い」と言う。春樹は新田の首にしがみつき、「もっと重くしてやる」と返す。
ベッドカバーの上をふたりで転がった。上に乗る春樹を、新田が眩しそうな顔で見上げてくる。
「お前がいなければ、挑戦もせずに終わっていた。神様がいるなら感謝したい」
すぐにでもひとつになりたくなるのを、春樹は必死で抑えた。新田の手を優しくすくい、手の平に頬ずりした。
「修一、好き。すごく好き。今夜は一緒にいて……修一のものにして」
「春樹──」
官能の入り口となる、深いキスをしようとしたときだ。
インターフォンが鳴った。
「ごめんね……!」
春樹は大慌てでベッドから下り、寝室の電話機から受話器を取った。
「に、丹羽です」
「高岡様とおっしゃる方がお見えです」
受話器を手でふさぎ、新田を盗み見た。新田は音をたてないようにして座った。高ぶりを静めるように、片方の膝頭にひたいを当てている。
ほかの部屋に転送させればいいのだが、方法がわからない。
仕方がない。春樹は声をひそめて応対した。
「今ちょっと……人が来てるんです。代わってもらえますか」
数秒後、嫌というほど聞き飽きた声がした。
「来客中なのか。新田か」
「そうです。何ですか」
「他愛ない用だ。移動のついでに寄った」
この男の思考にはついていけない。商品を悩ませる病気にでもかかっているのではないだろうか。
「大事なことじゃないなら、今度にしてください」
罰ならあとで受けてやる。手ひどい仕打ちであれば会社に言えばいい。
受付カウンターの女性に代わるものとばかり思っていたら、無音になった。受付なら何か言うはずだ。
「あのっ! 高岡さん、また今度に」
「……携帯電話をなくすな」
「ええっ?」
「携帯電話を紛失するな。機種変更をしても番号は変えずにいろ」
高岡の言葉が足らないのは今に始まったことではないけれど、何なのだ。いったい。
勢い込んで問い返そうとする前に受付カウンターの女性が出る。
「お通ししなくてよろしいですか?」
「いいです! いいですけど、高岡さん、まだいますか? いるなら代わってください!」
「少々お待ちいただけますか」
保留音が流れる。背後でベッドがきしむ気配がした。新田がベッドの端から脚を下ろしてこちらを見ている。
春樹が曖昧に視線を外したと同時に、保留音が消えた。
「高岡様はお帰りになりました」
申し訳なさそうな声で言われる。駆け下りる理由もないため受話器を置いた。室内電話機に淡い影が落ちる。
振り返る間もなく、新田に腕をつかまれた。
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