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第一話・焔 第五章・2


 男娼が全身打撲で運び込まれた病院まで、高岡の車は常識的な速度で向かった。
 春樹はシートベルトをつかんで、わめくように話す。
「それ、それで、喫茶室から出たら雨が降ってて……ちがった、雨はあとからで、その人、稲見さんを追おうとしたんだけど、足も痛めてて。三浦様がやったってはっきり言わないけど、間違いないんです! 体、鞭傷だらけだって!」
 怪我をした男娼についての話が、あちらへこちらへと飛ぶ。
 自転車について言うべきか迷っていた。憶測に過ぎないので粥川の名も出せずにいる。
 商品を観察するのが調教師の仕事、隠し事はすぐに見抜かれた。
「気になることがあるなら言え。些細なことでもいい」
 春樹は一分近い沈黙のあと、新田の自転車のチェーンが何者かによって切られた、心当たりの生徒に訊ねてみたら違うと言われた、生徒の言い分を鵜呑みにはしないが、直感を信じてみたいと思う、と言った。
「僕の直感なんて……当てにならないですけど……」
 われながら惨めな声で嫌になる。高岡は意外にも、前方を見て静かに返した。
「お前にも自力で切り抜けた危機はある。勘を信じるのは悪くない」
 春樹の顔が左を向く。まだ高い位置にある太陽が、運転席に座る男の横顔を照らしていた。
 怪我をした男娼は息をのむほど美しかった。唇が高岡に似ていた────
「僕のせい……なんです」弱々しい声が言い訳を継ぐ。
「あのまま帰しては危ないと思ったのに、修一のほうが大事だから引きとめられなかった」
 男娼が稲見に談判しにきた日、春樹も男娼と話した。好意を侮辱と受けとった男娼は街へと消えた。
 帰してはいけなかったのだ。怪我の完治を待たずに仕事を欲しがったということは、金に困っていたのだろう。
 焦りは判断力を鈍らせる。真っ黒に汚れた道が、灰色程度に見えることがある。
 窮した状態で三浦の相手をしろと言われたら? 経験済みの暴力に耐えて報酬を、と思ってもおかしくない。
 金を貸すこともできた。春樹の連絡先を教えることもできたはずだ。できることをしなかった。仲間を見捨てた。
「稲見さんじゃない! 僕のせいです! い、意識がないなんて。どうしたらいいんだろう……!」
 左の頬に熱が走る。はたかれたのだとわかったとき、信号が赤になった。
「この世界は綱渡りだ。しくじれば踏み外す。それより新田だ。自転車のチェーンが切られたと言ったな」
「は、はいっ」
「知っていることを余さず話せ」
 男娼も稲見に粥川の名を言っている。今回の経緯はさておくとして、社は改めて粥川を問いただすかもしれない。
 それなら今言っても大きな問題にならないのではないか。社ではなく、高岡に打ち明けるのだから。
「確証のないことでも、いいですか……?」
「構わん」
 春樹は粥川に社のトイレで脅迫されたこと、チェーンは専用の工具で切られたことも明かした。
 生徒が工具を使うのはいきすぎだと思う、とも話した。
 高岡の表情は読めない。話半分に聞いているようではないとわかるだけだ。
「お前は何を訊かれても知らないの一点張りで通せ」
「えっ」
「二度言わせることではないと思うが」
 守ってやると言われたのではない。真相を突きとめてやるとも言われない。
 だが、高岡は何かしようと考えている。
 シートベルトをつかむ手をゆるめた。深く座り、左を見ずに言う。
「修一が何かされたら……僕が苦しむから、ですか」
 返事はなかった。相変わらずのオツムだな、くらいは言われると思っていたのだが。
 信号が青に変わる。交差点を越えると流れがよくなった。
 雲の切れ間が見えた。つかの間のぞいた水色の空に、男娼が意識を取り戻すようにと願った。


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