Cufflinks

第一話・焔 第五章・1


 受付カウンターで呼びとめられ、頬が引きつらないようゆっくり歩いた。
「新田様とおっしゃる方がお待ちです。また、クリーニングが仕上がりました」
 カウンターに置かれたものは高岡のジャケットだった。雨の日に羽織らされたものだ。広げて確認させた女性と春樹の手がぶつかる。女性に頭を下げながら、小声で言った。
「これ、あとで受け取ります。少し預かってもらっていいですか」
「かしこまりました」
 カウンターの脇、斜め奥に向かって機械的に進む。笑顔を作ることだけに専念した。
 雑誌を読んでいた新田が春樹に気づいて立ち上がる。春樹は自分でも意識することなく、「座って」と言っていた。
 来れば部屋に上がれると思っていたのだろう。新田は口を開き、浅く腰かけた。
(だめだ。こんなところにいさせちゃ。好きなんだから)
 妙な義務感が渦巻く。言い訳を探して鞄に目を落とした。
「散らかってるから上がってほしくないんだ。だめだね、人にまかせてると。前より自分でやらなくなっちゃう」
 散らかってなどいない。ひとりでいたいだけだ。これ以上言葉が見つかりそうになく、恐る恐る新田を見た。
 新田は落胆していないようだ。目が泳ぐこともないし、唇を噛むわけでもない。飾り気のないTシャツの下にある筋肉も強張っていなかった。優しい笑顔を向けてくる。
「いいんだ。俺も長く居るつもりで来たんじゃない」
 上がってほしくないと言われて気をつかったのだろうか。それにしては柔和だ。
「夕飯、食べたか?」
「う、ううん」
 考えてみればテストの最終日だ。何をおいても新田と過ごせばよかったものを、春樹はまっすぐ塾に向かった。
「あ、あの……ごめんね。今日、テスト終わって、すぐに連絡しなくて……」
 柔和な顔はますます優しくなり、春樹はいっそう小さくなっていく。無意味に遠慮するおかしな心を疑われないよう、静かに腰を下ろした。
「お前が真剣な顔してたから声をかけなかった。今日、水曜日だろ。塾に早く行く必要があるのかと思ったんだ」
「塾の時間は厳しく決まってない。でも今日は一刻も早く行きたくて……」
「テストの結果がよさそうだからか?」
 新田の声が張りのあるものになる。瞳が明るく輝いた。
「めちゃくちゃ悪そうじゃない程度だよ。テストはテスト、勉強は勉強って感じなんだ。塾はテストの予定なんて無視してるし、ちょっと心配だけど」
 たいして面白くもないと思うのに、新田は身を乗り出して聞いている。塾の講師と似た表情をしていた。
「お前は底力あるから、やればできる。いい塾に通えてよかったな」
「底力なんてないよ」
「ないわけない。受験して入学したんだろ。誰でも入れる学校じゃないんだ」
 確かにそうだ。金を積めばどうとでもなるところなら退学の心配などせずにすむ。社も現役の高校生でいさせたければ投資すればいいだけのことだ。
 胸がちりっとした。分数で足踏みしている春樹を、ある男はあきらめなかった。学業優先の契約条件を貫いている。
 ばかみたいに、愚直に。
「春樹……顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
 またあいつに心を持っていかれるところだった。新田といるのに、何を考えている。
「大丈夫! 急に頑張ったから、ぼうっとしただけ。修一も晩ご飯まだなの?」
「ああ。でも、調子がよくないなら無理には」
「大丈夫だよ。どこにする? ファミレス? あ、ハンバーガー食べ、た……」
 正面エントランスのドアが開く音に続き、規則的な靴音が響いた。
 絶句する春樹の横で新田もロビーを見た。聡明な瞳が怒気を帯び、受付カウンターに向かっていく人物を睨む。
 長身で均整のとれた体を包むスーツは三つ揃えだ。深い黒が禁欲的かつ、正体をわからなくさせている。呆れるほど合っているから仕立物なのだろう。靴もネクタイも調和がとれている。
 受付カウンターの女性に示されて初めてこちらを向く。
 おや、という様子で片方の眉を上げる男が近づいてきた。自信満々の靴音は変化しない。
「新田くんをお通ししないのか」
 春樹が答える前に新田の口が動く。
「僕がいいと言ったんです。今から一緒に外で夕食をと思いまして」
 気のせいか「今から」に力が入っていた。高岡は無言で微笑み、封筒を差し出してくる。
「学校から父君に宛てられた手紙だ。いい知らせなのでお前にも、とのことだ」
「いい知らせ……?」
 震えないように受け取った封筒は開封されており、学校の印鑑が押してあった。
「たぶんアルバイトの許可が下りたんだ。俺の家にも今日届いた」
「ほんと? そうなんですか? 高岡さん」
「どうだろうな。社員さんがお持ちする予定だったが、体調を崩されているので代わりに寄ったまでだ。ああ、新田くん」
 新田が警戒心をあらわにして高岡を見る。高岡はスーツの前を整え、唇の端を上げた。
「チビがしっかり食べるよう、見てやってくれると助かる」
 利発な横顔から怒りが消えた。同情するような眼差しを高岡に向ける。
「わかりました。でも、友達としてしか見ません」
 高岡は微笑をたたえたまま小首をかしげた。「それで?」とでも言いたげだ。
「お父さんもお体の具合が悪いんですか? 春樹の携帯番号だって知ってるでしょうに、電話一本しないのは冷たいと思います。本当ならお父さんが春樹と食事をするべきです。口が過ぎて申し訳ありません」
 頭から尻尾まで正しい新田の言葉に、高岡は目を伏せただけだった。笑みを消すことなく背を向ける。
「口が過ぎるとは思わん。頼もしいかぎりだ」
 来たときと同じ靴音が遠のき、いつもの香りもすぐに消えた。


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