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第一話・焔 第五章・1


 手もとが暗くなり、春樹は窓を見た。成瀬が帰ったころには明るかった空がオレンジ色に染まりつつある。
「六時半……」
 机の上には解き終えていなかった分数のプリントと、自分ではない人の名が書かれた大学ノートがあった。
 古いノートの表紙を見る。ボールペンで書かれた『高岡』を指でなぞりそうになり、裏返しにした。
 椅子から離れて窓を開けた。オレンジ色や淡いピンク、金色、影になっている部分の灰色などが、西の空にある雲を彩っている。
 数時間も集中して机に向かっていたなんて、高校受験のとき以来だ。受験勉強は家庭教師が用意した課題をこなしていればよかった。自分で考えて解いたというより、出題パターンを叩き込んだだけだったと思う。
 分数でつまずいた春樹に一から理解させるのは無理だと判断されたのだと、今になってやっとわかった。
 高岡のノートは、何もかもが春樹のものとは違った。公式を丸写しにした箇所などひとつもない。解答に至る過程と、おそらくは教師が授業で強調したであろうポイントが書いてあった。ポイントにしても、ポイントになる理由が必ず書き添えてある。
 理解できなかったところなのか、クエスチョンマークが数箇所、薄く残っていた。単純に消しきれていないだけで、疑問を疑問のまま残していない。
 三冊の大学ノートをカンフル剤にして、夢中で分数問題を解いた。高岡でも一足飛びでT大に入れたわけではないと思う。記憶力は持って生まれたものだとしても、ノートには格闘の痕跡が確かにある。
 解き終えた分数のプリントは毛羽立っていた。消しゴムのカスをたくさん作って、戦ったからだ。高岡のノートと触感が似ている。
 ひとつ疑問がなくなれば次のクエスチョンマークに挑むだけだ。分数から高校過程に追いつかなくてはならない。週が明ければ三日間の期末テストがある。
 夏の空が夕方から夜へと着替える様を見ながら、春樹はもう一度学習机に向かった。








 翌週の水曜、期末テストを終えた春樹は塾にいた。以前は平屋の民家だったためか、講師の趣味なのか、和室には文机があった。畳の部屋での対座は自然と背すじが伸びる。
 先週は追い返されてしまった学習塾に、今日は入ることを許された。講師は春樹が提出した分数のプリントの表面を触り、微笑んだ。毛羽立った紙から努力が伝わったようだ。
 新しいプリントを手渡される。前回より問題数が多く、図形問題もあった。
「考え方をすべて書いて提出しなさい。習った解き方でなくてもいいから」
「はい」
 迷いなく答えた春樹を講師が見る。今までなら蚊の鳴くような声で返事をしただろう。解答過程が詳しく書かれた参考書を買おうと思ったかもしれない。
 他人の解答ではだめなのだとわかる。自力で疑問符を消していかなくてはならないのだ。
 講師は期末テストについて何も訊かない。春樹が通う高校のスケジュールは渡してあるから、今日でテストが終わったと知っているはずだ。どの程度解けたか訊かれると思っていたため、いつ立ち上がればいいのかわからない。
(自分から言ったほうがいいのかな)
 手応えがあったと胸は張れない。しかし嘆くほどの結果でもないように思う。追試なら追試に備えるだけだ。
「顔つきが少し変わってきたね。何かあったのかい」
「遠い親戚の人がT大受かった人で、厳しくて……ノートを見せてくれました。中学生のときの……ですけど……」
 途中から曖昧になった。言う必要はないのに、何を正直に答えているのだ。
 講師は黒縁眼鏡を指でなおし、明るい表情を見せた。
「それはいいことだ。ご親戚の考え方は参考になったか?」
 答えてしまったものは仕方がない。勉強に関することなのだし、隠すこともないだろう。
「努力したんだな、と思います。付焼刃じゃないっていうか。消しゴム、たくさん使ってありました」
 一夜漬けではT大に受からないことくらい小学生でもわかる。笑われると思ったら、講師はしきりとうなずいた。
「きみの高校には独自に系統立てた学習方針がある。地力のある子は一気に伸びる反面、考える姿勢が求められる。知識は財産だ。この調子で続けなさい」








 自宅最寄り駅を歩く春樹の足取りは重かった。少々遅い時間でも、都心近くの駅は人が多い。酔ったようになってしまい、改札近くにある柱にもたれた。
 ちょうどこのあたりだった。私服の成瀬と待ち合わせて、この柱の前を歩いた。

 『彰さん、今の部屋には入らないことにしたそうで』

「どうして……自分で言わないんだよ……」
 頭は整理できてきたのに、心がぐちゃぐちゃだ。気にしなくていいことばかり気にしている。
 春樹に足りないものは警戒心と、考える習慣であることには変わりない。春樹がそれらを会得すれば調教師も厄介な商品から自由になる日が近づく。部屋に上がらないと成瀬に告げさせ、徐々に離れていくつもりなのだろう。
 どの道春樹が塔崎のものになったあとは、社も高岡に用はなくなる。
「…………ッ!」
 強い吐き気に襲われた。口を押さえてトイレの個室に駆け込む。
 体を折って腹を押さえても、何も出てこない。何度やっても唾液がわずかに垂れるだけだ。おさまるのを待って個室を出る。ひたいには冷や汗がにじんでいた。
 鏡に映る顔が情けない。血の気が引いており、目の下には薄いくまがあり、口の横が震えている。
 何も悪いことなどない数日だった。テストで空欄にした問題はないし、塾では「この調子で」と言われた。
 こんなひどい顔になる要素はない。
 自宅マンションで受付カウンターの人に見られてもいいよう、顔色だけは何とかしよう。
 力を入れてごしごし洗い、錘をぶら下げているような足で階段を上った。


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