Cufflinks
第一話・焔 第五章・1
助手席に座ったとたんに携帯電話を取り上げられた。高岡は犬の抗議など気にしない。
取り返そうとする春樹の手を払って数字ボタンを押し、開いた電話機を返してきた。
「成瀬の番号だ。登録しておけ」
見慣れない携帯電話の番号が表示されている。眉間にしわを寄せながら登録していると、高岡はサングラスをかけて窓を下ろした。
「一時間後にかけろ。出なければさらに一時間後だ。成瀬と連絡がとれるまでは部屋に入るな」
「え……勉強しなきゃいけないし、塔崎様とお会いするよう言われたら支度しないと……」
駐車場の蛍光灯がサングラスに反射する。淡い色に隠される目は、少し離れたところに停めてある清掃会社のバンを見ている。
「塔崎様が今日お会いになる可能性は極めて低い」
「なんでわかるんですか? 稲見さんに何か言われてるとか?」
「何も言われていない。勘だ。とにかく成瀬と話せるまで部屋に入るな。万が一塔崎様とお会いするよう依頼されたら、体調が悪いと言って断れ」
仕事を断る? 上客の要望を仮病で断ることができると?
そんなことができるとは言わなかったではないか。可能なら接待を減らしていた。
早い段階で避けていれば、塔崎も愛人契約など持ち出さなかったかもしれない。だが今は部屋の問題だ。
「どうして部屋に入っちゃだめなんですか? 成瀬さんに電話しろって、どう」
高岡が自分のこめかみを指で叩く。無言の『考えろ』だ。
成瀬は鍵の交換、内装修復や……盗聴器の発見などを生業にしている。
リアウィンドウ越しに清掃会社の車を見ようとした。高岡に襟をつかまれて阻止される。
「彼らの近くを歩きながらそれとなく聞いていた。非常階段の扉を開けた男は先週入社したばかりで、居住スペースに忘れ物をした。取りに戻っているらしい」
定期清掃をする業者は仕事が終わるまで、全館共用のカードキーを使って作業をする。忘れ物をした男も、すべての部屋に入れるIC内蔵キーを持っているだろう。高岡は清掃業者の行動を不審がっている。
商品である春樹をロビーラウンジに残し、業者の話に聞き耳を立てる必要を感じたのだ。
「新入りの従業員なら忘れ物をしても不自然ではない。上司に叱られて階段を駆け上がるのも自然な行動だ。さて仔犬ちゃん。お前の部屋は何階だ」
サングラスの似合う横顔は前を向いたままで、目だけがサイドミラーを見ている。
「何階くらいまで上がればあのような歩き方になるか考えてみろ」
サイドミラーに、非常階段を使った若い男が映った。ふらふらした足どりで清掃会社のバンに近づいていく。肩も胸も躍るように上下しており、中年男に叱責されてもまともに謝れないようだ。
春樹の部屋がある八階まで上り、急いで何らかの──成瀬が必要になるような何かをして──駆け下りてきたとしたら。
「あの人が僕の部屋に盗聴器か何か、仕かけたと……? 何のために」
「好きな相手が隠し事をしていないか知る手段は、写真だけではない」
つま先から頭のてっぺんまで粟立った。今枝弁護士に見せられた写真が目に浮かぶ。
「塔崎……様……!」
「そうと決まったわけではない」
「高岡さんも疑ってるんでしょう?! 約束の期限まで待つとおっしゃったのに……! 会社に言ってください!」
「自惚れるな」
後方でエンジン音がする。清掃会社のバンが四台、駐車場から出ていく。サングラスを通してもわかる眼光が春樹に向けられた。
「一から十まで守ってもらえるほど高い犬なのか、お前は」
「いいえっ。でも」
「どんな仕事をしていても、お前はひとりの人間だ。自分の身は自分で守れ」
数枚の紙幣を持つ高岡の右手が差し出される。光る袖口が視界に入り、腰を引いた。
鼻先に金をちらつかせても受け取らない春樹に焦れたのか、高岡はノートの封筒に紙幣を入れてきた。
「成瀬と連絡がとれるまでの飲食に充てろ。成瀬への礼は俺が用意する」
上の空で聞いていたため、変なタイミングでうなずいた。目が高岡の袖口から離れない。
今日のカフスボタンには透明の石が入っている。枠はなく、底の銀板と石のカットがきらめきを華やかにしている。
土曜の夜、高岡はどんな仕事をするのだろう。三浦の犬を鞭打ったような舞台に立つのだろうか。ホテルで誰かと会い、その人の心身を揺さぶるのだろうか。
「春樹。聞いているのか」
サングラスを外した茶灰色の瞳が春樹の視線をさらう。黒いモヤが噴煙のように広がった。
助手席にいる自分のみすぼらしさは何だ。このシートに座るのは、手のかかる犬であってはならない。
高岡を煩わせない存在か、もしくは────
高岡が愛した人であるべきなのだ。
「の、喉が渇いたから、もう行きます」
封筒を抱えてドアを内側から押す。襟ではなく、二の腕をつかまれた。
「ちゃんと聞いていたのか。自分のことだぞ、理解して行動しろ」
「放して……!」
平気で犬呼ばわりするくせに、肝心なときに人間扱いする。やはり危険だ。振り回される。
春樹を解放したのは高岡の携帯電話の着信音だった。買ってから変えていないであろう、どこにでもある電話の音だ。
わずかな力のゆるみを逃さず、高岡の手を振りほどいた。高岡は敬語で通話相手と話し、丁寧な言葉で保留の許可を得ている。車外に飛び出した春樹の後ろから、高岡の声が響いた。
「絶対にひとりで部屋に上がるな!」
封筒と携帯電話を手に走る春樹は、転びそうになりながら駐車場をあとにした。
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