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第一話・焔 第五章・1


「勉強の合間に小休憩か。仔犬ちゃん」
 勉強などしていないと見透かした声だ。当たっているだけに反論できない。
「大休憩です。この間は、送ってくれてありがとうございます」
 笑いながら高岡が取っ手を引く。通る声が受付カウンターの女性の視線を誘い、春樹は駐車場へ続く通路と、裏側の出入りへのスロープに目を走らせた。高岡は扉を押さえて怪訝な顔をする。
「何をしている。早く入れ」
「見張られてるかもしれません。高岡さんは目立つし、大きな声で笑わないでください」
 後頭部をはたかれる。頭を押さえて振り返ると、高岡が大きめの茶封筒をひらひらさせていた。
「動じるな。部屋に上がるつもりはない」
「えっ」
「上がってほしければ従うが」
 人目も気にせず暴力を振るう男がにやつく。春樹は叩かれたところをさすり、しぶしぶロビーに入った。








 高岡はロビーラウンジのソファに腰かけ、茶封筒から大学ノートを出した。
 ローテーブルに置かれたノートは古く、色あせた表紙の右下に高岡と書いてある。
「これ……」
「中学生のころのものだ。ノートのとり方がわかっていないようなので持ってきた。開いてみろ」
 この男は以前、春樹の教科書などを勝手に見た。公式を書き写すだけのノートに呆れたか。
 T大合格者が使っていたとはいえ、高校生に中学のノートをよくも、との思いは、一秒かからず消え去った。
 問題を解く工程がひと目でわかる……気がする。消しゴムで消した跡が多く、蛍光ペンどころか、赤鉛筆も使われていない。ノートは三冊あり、数学と物理、英文法だった。どのノートも一行を二行分として使っている。母子家庭で公共料金を滞納することもあったため、節約していたのだろう。
「一にも二にも授業に集中しろ。塾も自習も授業を補うものだと思え」
 ノートの上端からそろりと高岡を見た。整った顔は中庭に向けられている。
「ありがとう……ございます」
「礼を言う暇があるなら努力することだな。大休憩は終わりだ」
「……はい」
 ふたたびノートを見たとき、中年男の怒声が響いた。春樹も高岡も声の主を見る。エレベーターホールに清掃会社の制服を着た男女が集まっている。怒っているのはがっしりした体格の、責任者と思われる男だった。
「何やってんだあいつは! お前もお前だ。新入りだから見てろと言っただろう!」
 非常階段の扉を開ける若い男が「あいつ」のようだ。お前と呼ばれた男は謝り、小走りで受付カウンターに向かった。受付係に何か話している。中年男率いる一団は、掃除道具が入っているカートを押して駐車場に歩いていく。
 一連のやり取りを見ていた高岡が前かがみになり、小声で言った。
「このようなことは以前にもあったか」
「はい?」
「彼らは清掃業者のようだが、作業を終えた者がひとりで戻ることはあったかと訊いている」
「わかりません。掃除してもらうとき、僕は外にいますから」
 掃除の邪魔になると思って部屋にいないようにしていた。高岡は何に引っかかっているのだ。
「休憩を延長する。部屋には上がらず、少ししたら車に来い」
 狼に似た目には一切の甘さがない。春樹の返事を待たず、いつものコンパスで離れていく。
 封筒にノートを入れる春樹は首をかしげるばかりだった。


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