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第一話・焔 第五章・1


 土曜日も薄曇りだった。午前中とはいえ、自宅マンションの中庭には春樹しかいない。
 至れり尽くせりのマンションには定期的に業者の清掃が入り、望めば居住スペースもきれいにしてくれる。
 こういうとき、一階のロビーラウンジはちょっとした社交場となった。掃除の待ち時間に近所づき合いを始めた住人が楽しそうに話している。
 春樹は汗をぬぐい、携帯電話を開く。起きてから何度開いているかわからない。
 昨日、新田とはいつもどおりに接した。廊下ですれ違えば笑顔で会釈し、食堂でも短い会話を交わした。用具倉庫でふたりきりになることは避けて、よそよそしくなく、かつ、親密な関係に見られないよう振る舞った。
 更衣室を使う生徒からの接触はない代わりに、ぶつ切れの会話では訊き出せないことがそのままになっている。
 一昨日、用具倉庫を出るときに見た新田の目は落ち着きがなかった。何かを隠しているように思えてならないのだ。
 考えても始まらない。二十回近い呼び出し音に続いて聞こえたのは、普段と変わらない新田だった。快活で芯のある声が耳から入り、心地いい熱が胸を支配していく。
「春樹……? 春樹なんだろ?」
 電話をかけておいて黙っているためか、新田の口調が不安定になる。
「一昨日のこと、なんだよな? 用具倉庫で、力まかせに抱きしめたりしたから」
 ううん、と言って立ち上がる。春樹は中庭を歩き始めた。
「修一の声を聞くと、耳から熱が伝わるんだ。熱で胸がいっぱいになって……いやだよね、こんなの。女々しくて」
「女々しいなんて言うなよ。声を聞くと冷静でいられなくなるのは、俺も同じだ」
 照れた声を聞くとゆらぎそうになる。中庭を半周したところで、息を吸って切り出した。
「一昨日……修一、何か言いたかったんじゃない? 用具倉庫を出るときに」
 新田が息をのんだと手に取るようにわかる。
「困ってることがあるなら教えて。僕を巻き込むとか、変なこと考えてない?」
「たいしたことじゃないんだ。お前が気にすることじゃない」
「気になるよ。ひとりで背負われるほうがつらい。修一が苦しむの見たくないんだ」
 もう半周するころに、まったく予想外の答えが返ってきた。
「──自転車のチェーン……故意に切られたらしい」
 粥川の軍鶏そっくりの瞳と、用具倉庫を覗いていたであろう複数の目が交錯する。
「チェーンを切る工具が使われた」
「そ……! 修理に出した自転車屋さんに言われたの?! そんな大事なこと、どうして」
 言わなかったのだ、が喉の奥でとまる。
 自転車を修理に出したか訊いたとき、安定剤が抜けない春樹は寝ぼけた受け答えをしていた。そんなときにチェーンを切られたと言えば要らぬ混乱を招く。言わないでいてくれたのだ。
 通話口を押さえる手が震える。軽率さを振り払うために深呼吸して、動揺が伝わらないようにした。
「言いにくいこと、無理に訊いてごめんね。自転車は今も乗ってるの?」
「乗ってない。本当だ。工具はホームセンターでも買えるもので……ちょっと待ってくれ、部屋の鍵をかける」
 家族がいない春樹は悩みの種が消えるのを待つことに慣れていた。新田は両親と妹と暮らしている。家庭で沈黙を保つのは、流れていく雲に似た寂しさとは違う。言えない苦しさ、理不尽なことへの怒りがあっただろう。
「ごめん……修一」
「謝るのは俺のほうだ。煙草を吸う連中がいると知った時点で、校内でふたりきりになるのをやめるべきだった」
「チェーンを切ったの、その人たちかもしれないってこと?」
「わからない。学校の駐輪場で切られたんじゃないと思う。家を出てすぐにチェーンが外れたような感覚がしたから。苛々してるときに、高岡さんのカフスボタンを見てカッとなって……お前が、大事に持ってるように思えて……」
 新田の母親の声がする。下りてこいと言っているようだ。
「用具倉庫を覗いてたのが連中だとしたら……お前に何かあったら、俺……今度、こそ」
 語尾がかすれる。ホテルの前で暴力に屈した夜と同じに聞こえ、あえて空を見て話した。
「大丈夫。期末テストも近いから向こうも無茶しないよ。カフスボタンは気にしないで。大事そうに見えたのは、壊れてるからそっと持ってたからだと思う」
「壊れてる……?」
「高岡さん、料理中に包丁で手を切って、袖をまくったまま帰った。床に落ちてたのを僕が踏んで、留め金が曲がって。本人はなくしたこと忘れてるけど、急に返せって言われたら困るから、修理に出そうとしてたんだ。お小遣い貯まったし」
 昨夜こしらえておいた嘘だ。新田の沈黙は長くなかった。
「そうだったのか……悪かった、早とちりして」
 母親が上がってきたのか、扉をノックするような音がした。
「お袋が来たから切る。お前も気をつけてくれ。好きだ、春樹」
 春樹は閉じた携帯電話を胸に当て、柵で囲われたマンションの駐輪場を眺めた。
 学校の駐輪場でチェーンを切るのは難しい。校内には防犯カメラが設置してある。駐輪場も例外ではなく、一年生の春樹でもカメラの存在を知っていた。学校関係者が悪質な行為に及ぶとは思えない。
 新田の言葉からも、自宅の敷地内で切られたと考えるのが自然だ。喫煙の発覚を恐れるからといって、自宅に忍び込んで切るだろうか。それも専用の工具を使って。やるとしても、タイヤを傷つける程度にとどめるのではないか。
 となると、残るは────
 巨大な窓越しに見えるロビーラウンジから人々が去っていく。掃除が終わったのだろう。
 部屋に戻って考えを整理したい。ロビーにつながる扉の取っ手に、縫った痕のある手が触れた。


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