Cufflinks
第一話・焔 第五章・1
春樹の前に塔崎と同じブレンドコーヒーが置かれた。黒いスーツを着た給仕人が下がる。
生地も仕立てもよさそうな服を着た中年女性や、流行の服をまとう若い女性客たちが話に花を咲かせる。
テーブルを隔てたところにいる塔崎が、しきりと汗を拭く。好物のブレンドをすすっても視線が落ち着かない。クラシック音楽が軽やかに舞い、滑っていく。
「は、ハルキくん。期末テストはどうだったのかな」
春樹は顔を上げ、他意のない微笑みを披露した。
「華々しい結果じゃありません。でも、追試や補習は必要のない点数でした」
「そうなの。塾通いをしていると稲見さんから伺っているけれど、成果が出たのかな」
今のところ予測できるやり取りだった。塔崎が本当にしたい話をさせるには、少しかかりそうだ。
「どうでしょう。テストは重視せずに考える勉強を、という塾ですから」
塔崎は眉間にかすかなしわを寄せ、教育者を気取った顔つきになる。
「いいお考えだけれど、テストも大事だよ。足りないなら家庭教師をお世話しようか」
愛人候補の懐具合は相当いいらしい。夏休みの小遣いだと五十万円を渡したうえに、家庭教師か。
趣味は恩を売ることですかと言いたくなる。
迷うな。人を囲うにはそれなりの器が必要なのだと、わからせてやれ。
久しく聞いていなかった、もうひとりの自分の声がした。頭の芯が冴え冴えとしていく。
春樹はカップの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと首を横に振った。
「自分で頑張りたいんです。支えてくださる塔崎様のためにも、自分のためにも」
カップを置いた塔崎がこちらを見る。テーブルの端をつかんで頬を赤くした。
「支えてくださるって……受けてくれるのかい。あの話を」
「お返事は決められた日に致します」
銀行家の顔が曇る。春樹は気づかないふりをして、くつろいだ姿勢のまま続けた。
「社は僕にお客様との真剣な会話は望んでいません。話題が尽きないようにとは言われましたが、それ以上のことは、何も。必要ないと思っているみたいです」
いつもの嘘八百だが、あながち間違ってもいないだろう。
「でも塔崎様は違った。享楽主義のお方ではなかった。塔崎様がご用意してくださる家庭教師なら目に見えて成果が出ると思います。ありがたいのですけれど、僕には今の塾が合っています。こんな話、嫌ですか……?」
塔崎の目尻が下がる。かまわないよ、と言いたそうな表情だ。
さあ食いつけ。馬脚をあらわせ。恥をかかせはしないから。
「きみの話なら何でも聞きたいよ。そうだ。最近、変わったことはなかった?」
あっさり釣れてしまい、拍子抜けしそうになる。
やはり盗聴器とカメラを設置させたのは塔崎なのだ。気に入りの男娼が勘付いていないか、気が気でないのだろう。
ホテルに連れ込む素振りもみせないあたり、何が目的でここへ呼んだのかわかるというものだ。
春樹はカップに触れていた指を離す。居住まいを正し、照れたように下を向いた。
「変わったことというか、失敗、なんですけど。笑われそうで怖いです」
「笑ったりしないよ。何があったの?」
「キッチンで水をこぼしたんです。先週の土曜日……業者の方が掃除してくれた日で……きれいにしてもらったのに、家電製品のコードやコンセントプラグにまでかかって、大騒動です」
無邪気に笑う春樹を前に、塔崎は「そう、水をね」などと言っている。忙しく汗を拭く様子から、知りたくない情報だったのだと簡単に推察できる。
「それで……? 器具は? 交換したの?」
「はい。全部揃ってないと気持ち悪くて、玄関から寝室まで同じメーカーのものにしました」
「そ、そう……」
塔崎が背を丸める。一縷の望みも失せたといった様子だ。春樹は上客を緊張させないよう、静かに訊ねた。
「塔崎様のお誕生日祝い……覚えていらっしゃいますか?」
丸まった背中が伸びた。塔崎の瞳が明るく輝く。
「もちろんだよ。あんなに嬉しかったお祝いはない」
春樹の武器は心からの言葉しかない。コーヒーカップを両手で包んで塔崎を見る。
「このところの僕は失格でした。こういう仕事をする者としても、人としても」
どうか届いてくれと念じて言葉をつむぐ。
「あの日のように塔崎様の目を見て話せていませんでした。笑うことも減って……ご心配をおかけしました」
塔崎が青くなった。必死の形相になり、椅子から腰を浮かす。
「許しておくれ……! きみの部屋に変なものを仕掛けたことは謝るから。だからどうか、僕のもとから去らないで」
隣席の女性がこちらを見た。塔崎も見られたことに気づき、座りなおす。
「器具に水をかけたのは僕です。水をかけたことは今日まで忘れていましたし、思い出すこともありません」
「きみ……」
狼狽する銀行家に同情はしない。へつらうのとも、身を守ることとも違う。
高校生を愛人にしたがっている者も心を宿している。嫉妬心から疑い深くなったり、打ちひしがれたりもする。
援助することでしか関係を保てなくても、人の血が流れているのだ。
「過ちはすべて僕にあります。水がかかったのは事故で、器具を換えたのは僕の気まぐれです」
無音の時間が続いた。失敗の二文字が頭を横切り始める。
誰にも言うなとの、高岡の忠告を無視して挑んだ。塔崎はすでに一夜限りの客ではなくなっている。
人生の一部を金で買われても、操り人形にはなりたくない。
見えない糸が張りつめる。自分の鼓動しか聞こえなくなったとき、塔崎が小さくため息をついた。
「きみは……人を許すことが上手だね」
塔崎の顔は穏やかだった。湿っぽさはあったが、修正不可能なほど悲観的ではない。
「僕はばかなことをした。甲斐性がないと笑われてもおかしくないことを」
「笑いません」
きっぱりと言い、塔崎を見つめた。
「それほどまでに僕を知ろうとしてくださったということ。笑うなんて、できません」
塔崎から複雑な表情が消えていく。よどみ、卑下する空気もなくなっていった。
「きみにはかなわないな。諭された気がしないんだもの」
そう言って、おいしそうにコーヒーを飲む。
遠くにあったクラシック音楽の旋律が戻り、春樹も塔崎が好むブレンドを味わった。
次のページへ