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第一話・焔 第五章・1
放課後の用具倉庫は蒸していた。晴れ間が見えたのは朝と昼の短い時間だけで、湿気の逃げ場がない。
春樹は装身具を見ていた。カフスボタンの、紗がかかった面を指でなぞる。
「はる……丹羽、いるか?」
引き戸が引かれて新田が入ってきた。カフスボタンをポケットにねじ込もうとしたが、入れそこなって土の床に落ちた。土嚢を積んだあたりに転々としていく。
「このゴミ触るなよ、汚いから」
「えっ。あ、は、はい」
新田は所定の場所にゴミ袋を置き、外の水道を使った。新田が手を洗っている間に見つけなくては。
(あった)
土嚢の影にかすかな光がある。あと少しで指が届くというところで、肩をつかまれた。
「どうした?」
「カフスボタンを──落とし」
言葉の選択能力を嘆いても遅い。新田は土嚢の裏に手を伸ばし、膝をついて振り返る。
「これか? 誰のだ……?」
父と同居していないことを知っているだけに、新田の表情は疑問に満ちたものだった。
小さな芽である疑惑が大木にならないうちにカフスボタンを受けとり、ポケットにねじ込む。
「ま、前に言ったでしょ。高岡さんが料理して怪我したって。そのときに、忘れて」
「理由なんて言わなくていい」
低い声が戸口に向かう。新田の疑いが大きくなったのは間違いない。
戸を閉めたあと、新田は黙って土嚢に腰を下ろした。膝の上で両手を組んでゴミ袋を見る。
軽蔑する目つきなのは、高岡の異常な行動を思い出しているからだろうか。
三浦の鞭傷を新田に見られた日、高岡は火のついた煙草を素手で消すという荒業をやってのけた。正しいことを追い求める新田が高岡を嫌うのは当然だ。新田は床に目を落とし、吐き出すように言う。
「遠い親戚の人が忘れた物を落として、なくさなかった。それでいいじゃないか」
「でも、これは本当に、あの」
「言わなくていい!」
立ち上がった新田に抱きしめられた。急に強い力がかかり、咳が出そうになる。新田はさらにかき抱いてくる。
「しゅう……先輩、苦しい」
戒めの鎖が全身に巻きついているようだ。新田の汗や息なら不快ではないはずなのに、べとついたものとして記憶に残ろうとする。身をよじっても解放されない。
「いやだ……!」
新田の背を叩こうとしたときだった。
目の端が光を認める。雲があっても夏の昼、すき間があれば日光は射し込んでくる。
(誰かいる)
陽光の幅が狭まり、引き戸が閉まった。何人かの足音が一斉に離れていく。
「誰だ!」
春樹を放した新田が戸口に駆け寄り、つっかえ棒を引き戸にかませる。新田の足がゴミ袋を引っかけ、缶か何かが倒れるような音がした。と同時に、ヤニ臭いにおいが広がる。
「……春樹。ちょっと来てくれ」
ゴミ袋は縛られておらず、新田の日焼けした手がジュースの空き缶をつまみ出した。缶にはジュースの残りが少量と、煙草の吸い殻が入っていた。
「水泳部の更衣室、知ってるか。旧校舎裏の」
「はい」
旧校舎の北裏に煉瓦造りの更衣室がある。創立時は屋外プールしかなかったため、水泳部が使用していたらしい。老朽化が進んだのと屋内プールができたこともあり、立ち入り禁止になっているはずだ。
「先月くらいから、素行のよくない連中が出入りしてる」
吸い殻入りの空き缶は別のゴミ袋に入れられ、新田の通学鞄に押し込まれた。
「それ、更衣室にあったの?」
「更衣室の外にあった。忘れていったんだと思う。旧校舎の裏を掃除したときに見つけた」
「じゃあ、さっきの音は」
こちらを見る新田が首を縦に振る。
「更衣室を使うやつらが様子を探りにきたのかもしれない」
おだやかな校風を誇る学校でも、それなりの規則はある。校内での喫煙が発覚すれば、まず停学は免れないだろう。悪事の証拠を忘れた生徒が、旧校舎の裏まで掃除する新田に目をつけたとは十二分に考えられる。
新田は引き戸の向こうを睨み、唇を噛んだ。
「学校側が見つけたら厳しい指導があると思って持ってきたけど……考えなしだった。お前を巻き込むつもりはなかったんだ。ごめん」
「知らん顔してればいいよ。正しいことしたんだから、謝らないで」
喫煙より情けないことをしている身分で言えることではないし、学校で煙草を吸う人物に絡まれれば勝てる自信は針の先ほどもない。
ただ、感情にまかせて抱きしめたり、後悔する新田を安心させたかった。
「更衣室に近づかないようにする。しばらくは修一もそうして。ね?」
明るく言い、細く開けた戸から校庭を確認する。運動部の生徒しかいないため、親指と人差し指で円を作ってみせた。新田の手が引き戸を押さえる。
「修一……?」
カフスボタンのことを言われるのだろうか。胸の奥に黒い点ができる。
新田の視線が宙をさまよう。大きな手を戸から離し、無理のある笑顔を浮かべた。
「堂々としてるのがいいのかもな。帰ろう」
引き戸が開くと風が舞い込んできた。校庭の砂をはらんだ熱風でも汗は乾く。
体が風を楽しみ、新田の心に注意を払うことができなかった。
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