Cufflinks
第一話・焔 第五章・1
翌日。
一学期最後のホームルームが終わると同時に、ほとんどの生徒が弾けるように校外へ散った。
部活動や用事のある生徒だけが残っている。夏休みアルバイトの説明を聞く春樹たちも居残り組だ。
進路指導室に集まった生徒は十人にも満たない。気構えや諸注意を聞き、提出必須のレポートを渡される。
春樹と新田は花壇へと向かった。用具倉庫に入ると自分を抑えられなくなるからと、新田がゴミ拾いを始めた。
「お、おめでとう、ございます」
唐突な発言に新田がまばたきする。
「学年で一位、だったでしょ? 掲示板で見ました。英語の満点は初めてだって。おめでとうございます」
何故こんな話し方になってしまうのだろう。
恋した人が素晴らしい成績をおさめた。自慢したくなりこそすれ、祝福するのに後ろめたさを感じるなんて。
ゴミを拾う春樹の手に、新田の指が触れた。
「そう言ってもらって嬉しいけど、俺が聞きたいのは違う言葉だ」
骨ばった指が離れ、微動だにしない目で見つめられる。
「このあいだの返事を聞かせてくれ」
夏休みの一日を空けてくれと言われていた。電話でもメールでも返事をしていない春樹に、答えを求めている。
「あ、空けます。先輩と、修一と過ごすよ。どこに行くの?」
「祖父の家。見せたいものがあるんだ。朝一番で行けば夕方には戻ってこられる。それで……夜はお前の部屋に行きたい。散らかっててもいい。部屋に上げてほしい」
まばたきひとつしない新田とは対照的に、春樹は好きな人の目をまともに見られない。
一陣の風がグラウンドを走り抜けた。熱く、土埃を含んだ風が髪や顔に当たる。
春樹を突風から守るように半身を寄せた新田が、かすれた声でささやいた。
「ふたりだけになりたい。必ず空けてほしい」
波打つ花壇が視界の端に入る。春樹は数回うなずいた。最後まで茶色の瞳を見ることができなかった。
風呂から上がった春樹は、大慌てでリビングの受話器を取った。
「はっ、はい! 丹羽です!」
「春樹くん? 学校、今日が終業式だよね、確か」
いがらっぽい声だったため、稲見だと気づくのに数秒かかった。電話機には『会社携帯』の番号が表示されている。
「そうですけど、何か……」
夏休み早々、塔崎と寝ろと言われるのだろうか。胃がじくじくと痛む。
「急で悪いんだけど、明日、塔崎様とお茶をご一緒してくれないかな。場所は以前、きみがうまく応対してくれた喫茶店。銀座の。覚えてるかな」
「は……い」
忘れるはずもない。キーケースを贈られた喫茶店だ。帰り道に塔崎が春樹を尾行した。
あのとき、高岡が塔崎に追跡をあきらめさせた。舞台俳優張りの大声で春樹を叱責し、衆目を集めた。出勤途中の慌ただしい時間に安い犬を救った。
(また……! もう忘れろ。忘れると決めたじゃないか)
パジャマの前を片手でつかむ。急いで着たのでボタンを掛け違えていた。
「春樹くん? 喫茶店は覚えているんだよね?」
「覚えてます。ごめんなさい、眠くてぼうっとして」
「それはいけない。睡眠不足は健康の大敵だから……失礼」
受話器を通して咳が聞こえた。痰がからまるような、湿った咳だ。
高岡の言っていたことが真実なら、稲見は体調を崩していたはずだ。
「稲見さん、風邪ひいてるんですか?」
「どうもまだ、咳がね。お茶だけだから公共交通機関で行ってくれないかな。申し訳ない」
「それはかまいませんけど、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。それじゃ、明日の午後二時、銀座の喫茶店に。いいかな」
「わかりました」
稲見が切ったことを確認してから受話器を戻す。インターフォンを兼ねた電話機を見て、パジャマのボタンに目を移す。
「ばかだな……慌てなくてもよかったのに」
この部屋は浴室にも電話機があった。洗面所やトイレまで、すべての部屋に電話がある。
いまだになじめずにいるのだ。豪勢なゆりかごに。
パジャマを着なおして洗面所に入る。髪を完全に乾かし、ベッドに入った。十時前だからまぶたは重くない。
非の打ち所がない寝室を見ているうちに、様々な映像が浮かんでは消えていく。
桜の木を仰いで笑う新田、社の会議室で白昼堂々と唇を重ねる高岡。春樹を置いて逃げたと泣く新田、春樹を焔の溶鉱炉に突き落とす高岡。
利き手を包丁で引き切り、赤い血だまりを広げる高岡──
胎児のように丸まった。息が苦しくなるくらいちぢこまり、睡魔の到来を祈った。
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