Cufflinks
第一話・焔 第五章・1
翌日。春樹は返却された期末テストの答案を見ていた。
数学が平均点に満たなかった以外、補習が必要になる点数はひとつもなかった。鞄に入れる前にもう一度見る。
高岡が山を張った前回より悪い結果の教科もあったけれど、あまり気にならなかった。どうして間違えたのか見当がつくからだ。復習に必要な質問事項が容易に思い浮かぶのは、今までにはないことだった。
森本が机に寄りかかってきた。当たり前のように答案を覗き込んでくる。
「わ、すげ。おれよりいいじゃん」
森本が見ているのは物理の答案用紙だった。平均はかろうじて上回ったが、立派な点数ではない。森本は謙遜するタイプではないし、感心した面持ちで答案を見ている。
「いいって……平均、ちょっと超えただけだよ?」
「お前なあ。イヤミかよ。今回、平均に到達したの学年でも十人そこそこだって話だぜ」
そう言われて思い至る。今朝、廊下で担任に肩を叩かれた。物理教師である担任は静かな人物だ。きつく叱ることはめったにない反面、スキンシップもしない。
笑顔で叩かれた肩が急にあたたかくなった気がして、答案用紙を鞄にしまった。
「そうだ、掲示板見たか? 一階の」
「ううん」
「夏休みのバイト、申請してたろ? 結果が貼ってあったから見てこいよ」
笑顔を向けそうになり、うつむいた。森本と小中学校を共にした瀬田は、寝る間も惜しんでアルバイトをしても退学が決定している。親友が経済的理由で退学するのに、たった数日のアルバイトなど聞いて呆れるはずだ。
口笛を吹いていた森本が白い歯を見せて笑う。背中をバシンと叩かれた。
「やりたかったんだろ。頑張れよ。バイト代出たら、何かおごってくれよな」
「……ありがとう、森本」
早く行け、というジェスチャーで追い払われる。ここ数日、森本の目には明るさが戻ってきていた。怒った顔で校庭を見据えているときもある。しかし確実に笑顔が増えていた。瀬田との別れを吹っ切ろうとしているのだ。
体を売る自分を肯定するつもりはない。それでも、この学校に通えてよかったと思う。新田と出会い、森本や瀬田と色々なことを話せた。難しくて速く進む授業も嫌ではなくなりつつある。
浮かれた気分を押し殺して階段を下りる。玄関ホールの脇には掲示板があり、行事日程や連絡事項、新聞部員作の新聞などが貼られていた。
アルバイト、アルバイト、とつぶやいていた春樹は、ひとかたまりになっていた生徒のひとりにぶつかってしまった。
謝ってから生徒の視線を追うと、一枚の紙が視界に飛び込んできた。
成績優秀者の最上位に新田の名がある。
「すげえな。ダントツ一位かよ」集団のひとりが言う。
「新田って特進クラスだよな。お前、中学同じだろ」別のひとりだ。
訊かれた生徒は頬をぽりぽりかいて、あくびをした。
「だいたい十位以内にはいたけど、こんなずば抜けた点は見たことないなあ」
「英語が満点?! マジかよ。満点は今までないって聞いたぞ」
「オレも聞いた。なんかむかつくな」
春樹は感嘆の声や嫉妬の言葉を小さくなって聞いた。新田は主要教科で二位に大差をつけている。総合的な力を問われる英語には長文の英訳問題もあり、春樹のクラスに正解者はひとりもいなかった。
アルバイトの貼り紙を見るのもそこそこに、黒山の人だかりをあとにした。胸の高鳴りがおさまらない。
塾の講師が言っていた。この学校は独自に系統立てた学習方針があり、地力のある子は一気に伸びると。
新田はベースができていたのだろう。培ってきた地力に加え、私生活でどんなことが起きても逃げなかった。春樹をホテルの前に置き去りにしたと、自分自身を散々責めた。そんな日においても努力を続けた。
怖い。
掲示板に貼られた紙の一番上に新田の名を見つけて、最初に感じたのは恐怖だった。
汚く険しい道に引きずり下ろしてしまいそうな、底知れない怖さだった。
「……わ! 丹羽!」
森本の声がしたので振り向いた。創立以来初の記録を見るためなのか、生徒が次々に押し寄せる。春樹と同じように小柄な森本が人波にのまれて確認できない。
一歩動いた春樹の肘に、誰かが触れた。
「こっちを見るな」
聞いたことのない声に眉根が寄る。目だけで見ようとしても、人が多くて誰なのかはっきりしない。
「旧校舎裏の、水泳部の更衣室に来い。来なければ大事な先輩が赤っ恥をかく」
無遠慮な手が肘から離れる。急いで見回してもたくさんの人がいるだけだ。森本も春樹を捜すことをあきらめたようで、声がしなくなった。
春樹は拳を握り、旧校舎へ歩き出した。
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