Cufflinks
第一話・焔 第五章・1
「仕事じゃないんです。こんがらがってもいない。僕は、あなたが……! あなたを」
切れ長の目が見開かれる。日本人離れした色の瞳が小刻みに動いた。
春樹の唇が「す」を作る直前、傷のある右手で口をふさがれた。ケロイド状の傷が頭を痺れさせる。
うっとりして閉じた目尻から涙がこぼれた。
「錯覚だ」
断言がおかしかった。言葉など必要ない。利き手を使うのもらしくない。仔犬をあしらうなら左手で十分だ。
おかしなことだらけで、とまる涙もとまらない。
「お前の人生に何が必要か見誤るなと言ったことを覚えているか」
目を閉じたまま首を縦に振る。井ノ上と会わないほうがいいと言ったとき、怒った高岡は包丁で春樹の指と自分の手を切ろうとした。あの朝、帰りしなに言われたのだ。断じて見誤るなと。
「お前の危険なところは、ゼロか百と考える点だ。何もかもくれてやろうとするな。新田にもだ」
この期に及んで禅問答か。泣きながら笑う春樹の口から息が漏れ、前髪が上に向かって揺れた。
「手を離す。何も言うな。目も閉じていろ」
醜く歪んでいるはずの唇に、高岡の唇が重なった。無理に舌を求めない行為が体のあちこちを弛緩させる。
唇が離れる。目を開ける前に頭を抱かれ、高岡の胸に顔が密着した。
「俺は誰とでもこうすることができる」
規則的な鼓動と共に、頭上から降ってくる声を聞いた。
「わかるか、春樹。誰とでもだ。お前の心を引いているのは俺ではない」
「ちがう……」
「違わない」
両肩をつかまれて揺さぶられる。しっかりしろという動きだった。
「二度と言わないのでしっかり聞け。俺の人生にお前が入る余地はない」
告げたら終わるとわかっていたので、春樹は力なくうなずくだけだ。
ソファに向かった高岡が、ジャケットを持ちながら振り返った。
「愚かなことを考えていないだろうな」
終わったほうがいいなどと言ったから、自殺の可能性が頭をよぎったのだろう。
「考えてません。別の仕事に戻ってください。安全運転で」
いつもならここで嘲笑がある。人を小ばかにした笑いでカッとさせてくれる。
今夜の高岡は何も言わずに廊下を進んだ。
「春樹」
声に導かれて玄関を見る。美しい男は、怪我人を見るような目をしていた。
「一日、新田に与えろ。すべて忘れて新田と過ごせ」
「何もかもくれてやるなって……」
「くれてやるのと与えることは違う」
「──難しい……」
ドアが大きく開き、蒸された空気が入ってきた。夏の夜のにおいがする。
「恋とは難しいものだ」
情の機微を理解しているか疑わしい男が出ていく。靴音が消えて香りだけが残る。
『俺の人生にお前が入る余地はない』
サディストにも慈悲はあるようだ。ようやく自分の口から言ってくれた。
冷たい水で顔を洗い、ベッドに入った。睡魔は訪れそうになくても、体はベッドに沈んでいく。
網戸にとまっていたセミが飛び立ったのか、鋭い鳴き声がした。あと数日で夏休みだ。
認識と同時に終わることができてよかったのかもしれない。忘れるための時間はたっぷりある。
思考に蓋をしたのを見計らい、眠りの使者がやってきた。
次のページへ