Cufflinks

第一話・焔 第五章・1


「終わったほうが……いいのかな」
 人が走る音がした。続いてキーの電子音と、車のドアを開閉するような音がする。高岡は車に乗るのだろうか。
 誰のために? 誰のところに行くの? あなたは誰が好きなの?
 前触れなく春樹が電源ボタンを押した。ローテーブルに上半身をあずけ、両手で頭を抱える。
 これは恋だ。もう認めるしかない。
 厚い木の天板が振動する。のろのろと顔を上げ、通話ボタンを押した。
「どこにいる」
「……自宅です」
 鋭いクラクションが聞こえた。非常識な運転をして抗議されているのだろう。
「すぐに向かう。じっとしていろ」
 とうとう笑いが漏れた。はは、と言う春樹の口もとが、みっともなくわななく。
「何がおかしい」
「おかしいですよ。成瀬さんに言ったんですよね。今の部屋には入らないことにしたって」
 何か言いかけた高岡の声をかき消す大きさでクラクションが鳴った。
「いつもそうだ。自分では何も言わない。あなたを部屋に上げるつもりはありませんから、来ても無駄ですよ」
「酔っているのではないだろうな。何があったのか教えろ」
「お酒なんか飲んでません。来ないでください。僕は安い犬でも金持ちに買われた。あなたの助けは要らない」
「勘違いするな。引き渡せる商品かどうかは────くそっ、あの野郎!」
 聞き慣れない怒声が耳をつんざく。執拗にクラクションを鳴らされた高岡が激昂したようだ。
「たっ、高岡さん?」
「黙っていろ」
 高岡が窓を下ろしたらしく、断続的なクラクションが大きくなった。同時に罵声が飛んでくる。
 聞こえる声が若い。車がいいか腕がいいのか、命知らずの速さで走っているであろう高岡についてきているようだ。
 高岡を罵る言葉は聞き取れないが、高岡が喉の奥で笑った音はわかった。春樹が両手で電話機を持って叫ぶ。
「だめ! 挑発に乗らないで!」
 別のところからクラクションがする。二台との接触を恐れた人が鳴らしたのだろう。
「俺がお前の部屋に上がる理由をひねり出せ。そうすれば負ける。安全運転で向かう」
 どこまで卑怯で狡猾なのだ、こいつは。春樹は通話口を押さえて寝室を見た。
「ジャケット……! 貸してくれたジャケット、クリーニングできました。取りにきて!」
 エンジン音が変わる。負けると言ったそばから反故にする気か。
「高岡さん!」
「聞こえている。気を揉まずに待っていろ」
 重く、腹に響くような排気音が聞こえる。高岡の車のものではないと思う。高岡の車内からはウインカーのリレー音がしているようだ。
「タイヤが鳴るが問題ない。お前はそこから一歩も動くな」
 高岡の言葉どおり、派手にタイヤが鳴った。「正気かよ!」という若い声もする。数秒としないうちに曲がるときとは違う音がした。映画のカーチェイスで見る、速度を保った状態でのバック走行を思い起こさせる音だ。
「どうしたの! 何したんですか!」
 返事がない。金属音からライターの蓋を閉じたのだと判断し、高岡がひと息つくまで待つしかなかった。ジジッという、煙草の紙を焦がす音に安堵する自分が情けなく、ひたいを片手で支えた。
「無謀な若者に広い道を譲っただけだ」
 おそらく、少しは走りやすい大通りから高岡だけが狭い道に入ったのだ。強引なバックで。
 どちらが無謀なのだと言っても始まらない。つかの間の競争を楽しんだ相手も呆れたのだろう。揶揄する声も、うなるエンジン音も聞こえなくなった。
「……気をつけて来てください」
「そうしよう」
 高慢な声が耳にしみる。脳まで支配されないうちに立ち上がり、寝室のクローゼットを開けた。
 取り出したジャケットを見続けてはいけない。恋はひとつであるべきだ。
 受付カウンターがお節介な男の来訪を告げるまで、春樹はソファで丸まっていた。


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