Cufflinks
第一話・焔 第五章・1
手の平の痛みで目が覚めた。開いた手から、真っ白な敷布に留め金が壊れたカフスボタンが落ちる。春樹は背中を突き飛ばされたように跳ね起きた。
見慣れないものが視界に飛び込んでくる。飾りけのない、やわらかな色合いのふすま、マットレスに重ねられた厚い真綿の布団、美しい紋様の縁と青々とした畳、太い柱、障子、木材のみで組まれた天井。
(高岡の……別邸……)
二十畳の和室をふすまで仕切っても、広いものは広い。昨夜は入浴後に鵜飼夫人の手製弁当をたいらげても寝つけなかった。
返すことができなかった高岡の装身具を手に、布団に入りなおしたのだ。高岡が帰ってきても取り上げられないように────強く握りしめて眠った。
視線を胸もとに移した。白いTシャツは高岡のものなのだろう。昨夜、新品の状態で脱衣所に置いてあったものだ。
大きすぎるTシャツは春樹の動作を素早くさせた。障子が明るい。明け方に戻るという高岡の言葉が嘘でなければ、邸宅の主はとっくに帰ってきているだろう。
制服を着てカフスボタンをズボンのポケットに隠し、廊下に面したふすまを開けた。
長い廊下の向こうから焦げ臭いにおいがした。
キッチンをのぞくと、高岡が平然とした顔でフライパンを洗っているところだった。
「お、おはようございます」
高岡は返事をせず、キッチンの外側にあるカウンターをあごでしゃくる。春樹はスツールに腰を下ろした。
カウンターには焦げた目玉焼きだけが乗った皿と、湯気をたてている白米の茶碗がふたり分ある。カウンター上部にケチャップとウースターソース、食卓塩も置いてあった。
「顔は洗ったか」
「は、はい。泊めていただき、ありがとうございます」
「返事だけしていればいい。食べたらお前の自宅に寄り、学校まで送ってやる」
「そんな、いいです。自宅までで」
蛇口のレバーを下げる高岡がこちらを睨む。フライパンをキッチンの壁にかける手つきが荒々しい。
春樹は両手を合わせて、ぼそぼそと挨拶した。
「……いただきます」
隣に座る高岡を盗み見る。昨夜とは違う服を着ていた。職業不詳のラフなものでも、三つ揃えでもない。ベストのない一般的なスーツだ。見てくれのいい会社員に化けている。
「何もつけずに食べるのか?」
頬杖をつく高岡が調味料を見ている。急かされる前に食卓塩を取り、周りが黒い目玉焼きにかけた。高岡の眉が片方だけ上がる。
「仔犬ちゃんは塩派か」
高岡はケチャップを選んだ。三十四歳の調教師は竹下の煮込みハンバーグをうまいと言っていたし、ロールキャベツもおいしそうに食べていた。見かけより子どもに近い味覚なのかもしれない。
こみ上げる笑いを悟られないように、質素な朝食をすませる。
洗い物を始める高岡が、目を伏せたまま訊いてきた。
「何か持って眠っていたようだったが」
皿を渡す右手を高岡につかまれる。ガラス球みたいな双眸に貫かれて声も出ない。
「この手に、何か握っていなかったか」
「いいえ」
声だけは平静を装った。手の平にはカフスボタンの跡が薄く残っている。じっくり見られればわかってしまう。
高岡の手が離れる。装身具に似た色の瞳は、追求を続けることなく伏せられた。
「気のせいだったようだな。支度が終わったら好きにしていろ」
できるだけ静かに返事をし、皿洗いを続ける高岡から離れた。ロールスクリーンのすき間から庭を見る。シバザクラの石垣を確かめようと、顔の角度を変えてみた。
「少し下がれ」
「あ……はい」
言われたとおりに下がると、高岡が窓の端にあるスイッチを押した。ゆっくりとロールスクリーンが上がっていく。雲があるため優しい陽射しでも、色素の薄い高岡の瞳にはきついのだろう。
シバザクラがいたところには何もなかった。春樹の頬がゆるむ。
「よかった……」
オー何とかが香る。いつの間に近くにいたのか、高岡が春樹の後ろから窓を開けた。
「よかったとは、どういうことだ」
踏み石にあるサンダルが寄せられる。庭に下りてもいいのだと受け取り、一礼して隅の石垣に向かう。石垣のそばに立って振り返ると、高岡は窓の桟にもたれて腕組みをしていた。
「何がよかったのか答えろ」
「代わりの花が、いなかったからです」
春樹は花期が終わったシバザクラの跡地を撫でてみた。何を植えても見事に石垣を飾りそうな、黒くて手触りのいい土が敷かれている。
邸の主が庭に下りてくる気配はない。春樹は手についた土を払い、もう一度礼をした。
「ありがとうございます。ここに別の花がいたら、寂しいから」
灰色の瞳は微動だにしない。雲に切れ目ができて光の矢が射し、初めて切れ長の目が細められた。
「花があった、ではなく、いたと言うところがお前らしいな。行くぞ」
高岡が補助テーブルから車のキーと煙草、ライターを持ち、玄関に向かう。
昨夜乗せておいたハンカチと合鍵は回収されていた。
「すぐに鵜飼さんが来てくれる。窓はそのままでいい」
五十畳のリビングを突っ切っていく高岡を追う。あとで何を植えられてもいい。枯れて抜かれたシバザクラの後釜のように、夏の花がなかったことが今は嬉しかった。
他人の、それも調教師の庭だから関係ないのに、驚くほど安心する自分がいる。
緑濃い庭を振り返り、早く来いと怒鳴られる前に廊下を走った。
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