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第一話・焔 第四章・4
カウチソファに座る新田の顔は晴れ晴れとしない。ローションで汚れたからシャワーも浴びてさっぱりしたはずなのに、膝の上で手を組んで壁を見ている。
「話したいことがあるんだよね、修一」
新田の横に静かに座る。思慮深い瞳が足もとのラグマットを見つめた。
「夏休みに一日も会えないとしたら、つまらないやつだと思うか?」
「え?」
「夏だけじゃない。冬休みは完全に会えなくなる。長い休みを一緒にいられなくても、好きでいてくれるか……?」
受験ならこんな言い方はしないと思う。訊きたくても舌がもつれそうになった春樹を、新田がそっと抱き寄せた。
「冬休みに留学する予定なんだ。今度の夏休みは英語の詰め込みになると思う」
口を半開きにしたまま新田を見た。ごちゃごちゃだった糸がつながる。英語は主要教科のひとつだ。常にトップクラスを保つ新田が、英語が不得意なわけがない。新田が英語の塾通いを始めたのは植物学者に手紙を宛てるためでもなく、受験のためでもなかったのだ。
「……つまらないなんて、思うはずないよ。留学先はどこ?」
絞り出した声が震えていなかったためだろう。新田の表情がやわらいだ。
「アメリカ。受け入れ先は向こうの大学なんだけど、語学の授業やボランティアの他に、公開講座にも参加できるんだ。英語に問題がなければ、手紙を出した植物学者の講義も受けられる」
八月の終わりには塔崎への返事が待っている。イエス以外考えられない以上、この夏は新田と過ごせるまとまった日々になるはずだった。
(まただ。また僕は自分のことばかり)
新田は走り出した。スタートラインからして違うのに、ぼやぼやしていたら引き離される一方だ。
肩を抱いている大きな手に触れた。静かに下ろし、親指は親指に、他の指はそれぞれの指に重なるようにする。
「僕たちがうまくいかなくなったとき、英語の手紙を見せてくれたよね」
「春樹……」
「あのときの修一、声が弾んでた。つらいときを支える先生と学問なら、大事にしなきゃ嘘だよ」
新田から声が消える番だった。春樹を見る瞳の茶色が深い。
「植物の力を信じて、大切にする修一が好きなんだ。用具倉庫で初めて会ったときから」
頭のてっぺんにキスされて息がつまりそうになったのは、情けない境遇のためではない。
恋をしたから恋人を誇りに思うことを知った。恋した人が新田だから自分も前を見ていられる。
自殺未遂をしてから生きていてよかったと思うことはあった。新田と話せるようになったときがそうだ。でも、これほど強い感情ではなかった。
言葉は探さず、新田に抱きついた。春樹の背中に新田の腕がまわる。目尻が少しだけ濡れそうになった。
ローテーブルにマグカップを置いた。ソファで横になる。
多くの公開講座が夏休みを利用するのに反して、新田が敬う学者は冬に開くとのことだった。留学を支援する団体によれば、意識の高い学生を募るためらしい。
冬休みは塔崎の意のままになるだろう。旅行に行こうなどと言うかもしれない。あのべとついた声を聞くのだ。三度の食事をしながら。景色を眺めながら。夜、同じ寝床で。
晴れ間のない曇天を見る。大きな窓が、空いっぱいに広がる暗い色を見せつけていた。
濃淡が異なる雲を目で追っていると、自宅電話が鳴った。
「春樹くん。これから予定あるかな」
抑えた声のため、稲見だとわからなかった。会社の携帯電話だと確認して「いいえ」と答える。
「社に来てくれないか。塔崎様からお預かりしたものを渡したい。一時間もしたら出ないといけないから、急いでくれると助かる。旧館の喫茶室にいるから」
「わかりました」
軽々しい「悪いね」が一度もないなんて稲見らしくない。いがらっぽい声でもないし、体調不良でもなさそうだ。
塔崎の名が出るのも嫌な感じがした。
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