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第一話・焔 第四章・4


 旧館の喫茶室に入ったとたん、強すぎる冷風に襲われた。四階建ての古い建物は空調設備も年をとっている。
 細かな調整ができない、大きなクーラーの真ん前にある席に稲見がいた。一礼しようとした春樹が動きをとめたのは、稲見が苛々と煙草を消したためだ。
 稲見の向かい側に人がひとり座っている。こちらに背を向けてキャップを被っていた。背中の輪郭は若い男のようだ。身振り手振りで何かを訴えている。稲見が腕組みをして下を向く。男の話を聞きたくないような素振りに見えた。
 男がコーヒーカップを押しやって身を乗り出した。我慢も限界といった様子の稲見が顔を上げ、春樹に気づく。
「待ってたよ! こっち、こっち」
 若い男が振り返る。半分ほどしか見えない顔が青白い。男は帽子を目深にかぶって背を丸めた。
「とにかく無理だから。きみも今日は帰りなさい」
 席を立つときに稲見が言い、伝票を持った。男は稲見に追いすがろうとしたものの、周囲を気にしたのか腰を下ろす。日曜でも喫茶室は混んでおり、空席は男の手前しかない。稲見は男と背中合わせに座り、春樹に着席をうながした。
「ミルクティーでいいよね。冷たいのでいいかな」
「はい……でも、あの人、稲見さんにお話があるんじゃ」
「他人のことはいいから」
 ウエイトレスを呼ぶ稲見を男がうかがっている。キャップの端から白い網が見えた。ネット状の包帯に似ている。
 突然思い当たった春樹は、小声にするのも忘れて訊いた。
「もしかして、あの人が入院してた人ですか? 退院できたんですね?」
 三浦に遊ばれて怪我を負った男娼だと思うと、それ以外の人物には見えなくなった。返答を躊躇する稲見の態度も、さらに深くキャップを被る男の姿も、春樹の考えが外れていないと言っている。
「あの人と話してください。大事な話じゃないんですか」
 稲見の目に影が走った。眉間にしわを刻み、人差し指を振り振り答える。
「彼は約束もなく来た。僕は担当社員でもカウンセラーでもない。話すことはないよ」
 珍しく本気で怒っているようだ。竹下の写真を渡してくれたときに、稲見は男娼の退院が近いと言っていた。あのときとは顔つきがまるで違う。
 キャップの男が立ち上がった。パーカーの前ポケットに手を入れて前かがみに歩き、喫茶室の扉を開けて出ていく。厚手の生地を盛り上げる肩甲骨が痛々しかった。




 灰皿の横に微妙な厚みの封筒が置かれる。塔崎が好む、横に長い装飾された封筒だ。
「五十万円ある」
「ごじゅ……!」
 飲みものが運ばれ、言葉が途切れた。稲見は煙草に火をつけて白い煙を吐き出す。
「塔崎様の弁護士が訪ねてこられた。正式にお返事をするまでの間、きみに他のお客様を接待させないでほしい、とのご相談でね」
「だからって、こんな大金」
 まだほとんど吸っていない煙草がもみ消される。
「それはお小遣いだよ。夏休みで出費も増えるだろうからと。ご相談とは関係ないからいただいておきなさい」
 つる草模様が箔押しされている封筒を手にとった。銀行家の塔崎は金の力を熟知している。これ以上手垢をつけさせないための追加投資というわけだ。
 手に力が入り、紙幣ごと封筒が折れた。稲見が新しい煙草でテーブルを叩く。
「答えは決定している。明日にはお返事するから、プライベートでも過ぎた遊びはしないように」
 自分以外の客に脚を開かせない代金、五十万円也。次の愛人修行に何を求め、幾ら出すやらだ。
 煙草がテーブルに当たるトントンという音が、旧式のクーラーがうなる音にかき消される。稲見の手は百円ライターに伸びない。喫煙する気になれないようで、頬杖をついてブラウン管のテレビを眺めている。
「稲見さん。どうして僕を呼んだんですか?」
 こちらを見る顔に覇気がない。春樹は現金の入った封筒をテーブルに置いた。
「お金は僕の口座に入れればいい。もっと言うなら、決まっている答えを伝えるのに会う必要はないはずです。これから外でのお仕事があるんですよね? 忙しいのに呼んだのは何故ですか?」
「……きみも気が回るようになったね」
 テレビに背を向けるようにした稲見が、火をつけなかった煙草をしまう。
「弁護士がお見えになる少し前、塔崎様からお電話があった。きみの元気がないようだと」
 昨日、春樹が都庁ばかり見ていたと察していたのか。接待に不満があるなら直接言えばいいものを。
「いいかい春樹くん。これから言うことをよく聞いてほしい」
 ひょうひょうとしている稲見の目が、いつになく真剣な眼差しになった。
「きみは今まで、お客様の前では最大限の注意を払ったはずだ。危険な目にあっても救急隊が部屋に飛び込むことは一度もなかった。伊勢原様しかり、板倉様しかり」
「それは、高岡さんが教えてくれたことを」
「もちろんそうだ。でもね、仕事のときに彼はいなかっただろう。きみはいつもひとりで乗り越えてきたんだよ」
 いつしか稲見の手がアイスミルクティーのコップをどけていた。
「きみは最近、塔崎様に笑顔をお見せできているかい」
 重苦しいクーラーの音が消えた。運転が停止したのではない。春樹の耳に届かなくなったのだ。
 竹下の復職を嘆願したころから何かが変わった。塔崎の顔色ばかりうかがい、笑顔どころか会話も減ったように思う。減ったのは塔崎の笑顔もだ。塔崎の誕生祝いの席で見たような笑顔を見ていなかった。
 稲見が封筒を持つ。折りじわを丁寧にのばし、春樹の手をとって渡してきた。
「お客様をつかむのは大変だが、逃がすきっかけは些細なことが多い。チャンスを無駄にしてはだめだよ」
 力強く両手を握られた。せっかく伸ばした封筒にしわが寄るほどの握力だった。


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