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第一話・焔 第四章・4
社から一番近い交差点で立ちどまった春樹は、本社ビルの角から走り出てきた人影に気づいた。
「あれ……さっきの」
痩せ気味の体を包むパーカーもキャップも喫茶室で見たばかりだ。体を折り曲げ、膝に手を置いて苦しそうに呼吸している。車道を見る顔はひさしではっきりしないが、キャップの男が見ている先には小さくなる社用車があった。
交差点を離れて男に近寄る。春樹を認めた男が逃げようとした。反射的に腕をつかんでしまい、男が怒鳴る。
「気安く触るな! 俺を笑ってたんだろう!」
春樹もカッとなり、腹の底から声が出てしまった。
「僕には人を笑う余裕なんてないよ!!」
ひるんだ男が一歩下がる。春樹は男の腕を放し、声をひそめて言った。
「背が高くて眼鏡をかけた爬虫類みたいな男、知ってますよね。鞭が大好きな変態の」
帽子の下にある目が春樹を見た。影になっていても動揺はわかる。
間違いない。この男が三浦の餌食にされたのだ。
「話すと楽になることもあります。よかったらお茶でも」
「────ふざけるな」
地獄の使者のような声だった。男がキャップをとり、判然としなかった顔立ちがあらわになる。
息をのむほど美しいという例えは、この男のためにあるのだろう。細面で色白なのだが、なよなよした感じはない。眉だけが少し女性的だ。二重まぶたであっても目は涼しげで鼻筋はすっと通り、唇は高岡に似ていた。
頭部を覆うネット包帯が完全無欠の顔に影を落としている。自嘲気味に笑った男が横を向いた。後頭部に当てられたガーゼは大きく、怪我から一か月以上経ったとは思えないほど生々しかった。
「お察しのとおり、体は鞭傷だらけだ。俺の客はおとなしくてね。傷を嫌うからと仕事もできない。あんたは何だ。社員に待ってもらえるじゃないか。話してどうしようっていうんだ? 同情か。薄汚い好奇心か」
「そんなんじゃないよ。だいたい、稲見さんは渡したいものがあるからって」
「……むかつくガキだな」
言うやいなや、男の片手が春樹の襟をつかんだ。熱気をはらむ暴力の予感に支配される。
「お前、幾つだ。俺は来年成人だ。俺の担当社員は居留守を使うようになった。どういう意味かわかるか」
乱暴に突き放される。横に振るようにされたため、首に熱い痛みが走った。
「お払い箱ってことだ。今度俺に声なんかかけてみろ。ぶっ殺すからな」
男は足を引きずって歩き出した。社用車を追ったときにくじいたのかと思ったが、痛めたばかりの歩き方ではない気がする。体が資本だから立ち行かなくなり、担当でもない稲見を頼ったと考えるべきだろう。
一歩間違えていたら、春樹も今ごろ社屋の外をうろついていたかもしれない。稲見にも帰れと言われただろうか。
男娼は客につけなくなれば干上がる。愛人は愛されなくなれば終わりだ。
交差点に差しかかった春樹に、雨の匂いを含んだ風が吹きつけた。大粒の雨がアスファルトに散る。
(あの人、傘あるのかな)
雨が春樹の足を鈍らせ、男を引きとめることをあきらめさせた。
その選択が誤りであると、春樹には知る由もなかった。
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