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第一話・焔 第四章・4


 昼休み前の教室は、そわそわした空気が充満していた。後ろの引き戸が少し開けられている。教師に気づかれないように、扉に近い生徒が開けておくのだ。
 生徒の気持ちを把握しているだろうに、教師は黒板の上にある、校内放送用のスピーカーを見た。
「今から臨時の放送がある。静かに聞いて、廊下は走らないように」
 教師が教員用の席に腰を下ろすと、生徒の間から不平の声が漏れた。大半の机には教科書類が放り込まれており、片づけていないのは、何をしても遅い春樹と、ふさいだ顔の森本くらいだった。
 軽やかなチャイムに続いて、放送部員の声がした。

『進路指導室にて、夏休み体験アルバイトの説明会と、申請受け付けをします。希望者はクラブ活動中に来てください。繰り返します。夏休みアルバイトの──』

 夏休みに一週間程度、学校が選んだアルバイトができる。入学用のパンフレットにも書いてあった。クラブ活動の時間が、受け付け用に割り当てられたらしい。
「バイトなんて興味ねえよ」
「だよな。かったりー」
 生徒たちのひそひそ声がする。森本を見ると、むすっとした顔をしていた。開いたままのノートに肘をついている。
 放送が終わって、授業終了のチャイムも鳴り、春樹と森本以外の生徒が駆け出していく。走るなと注意する教師の声も厳しくはない。森本は第二食堂で食べるとだけ言い、ひとりで教室をあとにした。




 学生食堂の混雑は、卒業するまで解消されないのだろうか。
 料理ができない春樹にとって、仕出し弁当と学生食堂は命綱だ。皆と食べるのは好きだし、体が必要とするのだから文句は言えないけれど、毎回もみくちゃになるなら何か買って第二食堂で食べることも考えたくなる。
 野菜サラダや豆腐、煮物と白米という、変な取り合わせのトレーを持って空席を探す。要領のいい生徒がひとり、またひとりと、春樹を追い抜いて着席する。級友は窓際の席に陣取っていた。うろうろする春樹が視界に入らないようだ。
 腰にトレーが当たる。邪魔しては悪いと横によけたら、新田だった。
「一緒に食べないか」
「え……いいの?」
 新田は答えず、微笑みだけを返す。聡明な顔に浮かぶ穏やかな笑みが、春樹から不安を取り除いていく。
「何してんだ、新田! 席が埋まるぞ」
 テーブルが並ぶあたりから声がした。以前、図書室で新田と一緒に本を借りていた生徒だ。別の級友らしき生徒は空席を探している。
 新田は声の主に明るい笑顔を向け、言った。
「ごめん。今日は丹羽と食べる」
 人前で名を呼ばれただけなのに、トレーの小鉢が音をたてそうになった。
「窓側じゃなくてもいいよな?」
「は、はいっ」
 焦って答えながら、新田の仲間たちを盗み見た。「丹羽って、あいつか」「クラブの後輩だろ」「前も一緒に食ってたな」
 聞こえる言葉が気にならないのも、新田がそばにいてくれるからだ。
 殴ったり怒鳴ったりしない。花と話すことが得意で、いつも快活に笑っている。誰より優しいのに、誰よりも強い。
 やはり新田を好きになってよかった。
 横並びに腰かけた。肘や腕が触れるのが嬉しい。頬を熱くする春樹の隣で、新田がハンバーグ定食を食べ始める。
「今日は園芸クラブに参加できない」
「えっ。どこか悪いの?」
 食べる速度はいつもと同じだし、どこも痛そうには見えないのに。新田は目を細くして笑った。
「アルバイトの申請があるんだ」
 校内放送で言っていた件か。新田が申請するのが意外で、箸がとまった。
「経験しておきたいんだ。一週間で親の苦労がわかるとは思ってないけど」
 箸を置いた新田に見つめられた。顔に飯粒でもついているのかと思い、頬やあごを触る。
 忙しく動く春樹の手が、そっと握られた。生徒や教師が大勢いる場所での行動に、心臓が早鐘を打つ。
「み、見られるよ」
 拒絶するわけにもいかず、新田とつないだ手をテーブルの下に隠した。
「昨日のお前、今までとは違った。夏休みの一日くらいどうにかならないのかって、言うと思ってた」
 胸がかすかに痛む。言えるのなら言いたかった。足を引っぱりたくないから言葉をのんだのだ。自分の都合や欲望を殺したことを後悔はしていない。昨日、わがままを通していたら、頭のてっぺんにキスを受けることはなかったと思う。
 この恋をして、生きていてよかったと思うこともなかっただろう。
「だって、言ったら修一、先輩が困るから」
 つないでいた手がほどかれた。新田が箸をとり、春樹の冷や奴を少し食べる。
「冷たくてうまいけど、頭は冷えそうにないな」
 今日は新田の言っていることが汲み取れない。新田は、花としゃべるときの顔で微笑んだ。
「一日くらい会ってくれと言われたらどうしよう、なんて考えながら、言ってほしいと思うんだ。ばかみたいだろ」
「そんなことないよ……!」
 声が大きくなってしまい、口をつぐむ。新田がハンバーグを切り分けて、皿を寄せてきた。
「さっき、嘘ついた。親の苦労がどうのなんて、格好いいものじゃない。こうでもしないと毎日お前に会いたくなりそうで……おかしくなりそうなんだ」
 おかしくなりそうなのはこちらだ。こんなに人のいるところで、心を乱すことを繰り出してくる。
 ハンバーグに箸を突き刺した春樹は、新田を睨むように見た。
「今日、こんなこと言うなんて、ずるいです」
 茶碗を持つ新田の頭上に、大きなクエスチョンマークが浮かぶ。
「……用具倉庫でふたりきりになれない日に、言うなんて」
 新田の箸から白米がこぼれた。ズボンを拭く新田の顔が赤い。
『胸をかき乱すことを言われたら、用具倉庫でキスしたくなるではないか』が、ようやく伝わったようだ。
 切り分けてもらったハンバーグが、おいしさを保ったまま喉を通っていく。
 高岡の鞭に負けた春樹の影は、どこにもなかった。


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