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第一話・焔 第四章・4


 春樹は水やりのホースをたぐりながら校舎を見た。進路指導室は職員室の近くにある。新田はどの体験アルバイトに応募するのだろう。新田なら何でもできそうだ。
 ホースがぴんと張る。よそ見していて何かに引っかかったらしい。緑色の管に沿って逆戻りしていくと、真っ黒な影に手もとが遮られた。
「森本。どうしたの? クラブは?」
「サボった」
 そう言って、森本がホースをたるませる。花壇を囲む柵の間に、ホースが挟まっていた。森本に元気がない。
 瀬田が退学すると言ったときから、暗い目をしている。そのくせ顔は怒っていた。現実を受け入れたくないという心の声が、痛いくらいに響いてくる。
「ホース外してくれてありがと。でも、クラブに戻ったほうがいい」
「なんでだよ。お前に関係ないだろ」
 春樹はまったく上達のない手つきで、リールを使ってホースを巻いた。
「クラブ活動は授業だよ。参加できるのにサボったと瀬田くんが知ったら、悲しむと思う」
 やり場のない怒りがぶつけられることは覚悟していた。だが、森本はため息をついてしゃがむだけだった。
「正論かましてくれるよな」
 森本が校庭に座った。足を投げ出し、手を体の後ろでつく。昨日とはうって変わった、雲のない空を仰ぐ。
「もう少ししたら戻る。ちょっとだけいさせろよ」
 わかったと言う代わりに、森本と同じ格好をした。
 空の高さが夏だ。熱せられた空気に乗って、どこまでも行けそうな水色の空。
「アホみたいに抜ける空だな」
「うん」
「お前、なんで園芸クラブ選んだんだっけ」
「花壇がきれいだったから」
 ふうん、という声が少し遠くなる。あぐらをかいた森本が、花壇前面を飾るキク科の花を指した。
「何て花だ?」
「えっと、キク、かな」
「なにお前。わかんねえの?」
 この花は造園業者が植えたものだ。花の名前が印刷された札を見ようとしたら、首根っこが引かれた。森本が春樹の襟をつかんで、にやついている。
「ど忘れすることくらいあるだろ!」
 忘れたのではない。教えてもらっても新田の顔ばかり見ているので、覚えられないのが正直なところだ。
「あれは?」
「う……スイセンだよ。たぶん」
「スイセンって夏に咲くかあ? あっちのは?」
「あっちって、どっち──」
 背中に体重がかかり、振り返ろうとした。襟だけをつかんでいたはずの手が、両肩にすがるようにつかまっている。
 森本は春樹の肩の後ろに、自分のひたいを押しつけていた。
「おれ、チビだから小さいころ、ケンカになると勝てなかった。瀬田は一度もおれを殴ったことなくて、ケガすると勝手におんぶすんだよな。そのカッコで家までだぜ。恥ずかしいっつうの」
 下手な慰めほど邪魔なものはない。無言を保つ勇気もないため、知っている花を羅列して言った。
「キキョウ、バラ、ガーベラ、カスミソウ、チューリップ、シバザクラと……キクモドキ」
 小さく吹き出す音がする。キクモドキが効いたようだ。
「花って、すげえな。お前がすごいのかもしんねーけど」
 人の肩に体重をかけて、森本が立ち上がった。目を赤くしていない森本を見てほっとする。
「戻るわ。リール使えるようになれよ」
「頑張るよ。花の名前も忘れないようにする」
 春樹と似た体格の森本が、手を高く掲げて校舎に向かう。
 社会勉強、教育の一環としての『アルバイト体験』は、瀬田の足掻きを知る森本の目に、どう映っているのだろう。
 当の瀬田は? 他人に肉体を提供する春樹は?
 暇つぶし、ままごと、点数稼ぎ。悪く言おうと思えば、いくらでも言える。
 体験アルバイトの時給は、法律で定められた最低賃金だという。交通費がかかる場所での就労も許されていない。
 働いてみようという意欲をけなす気にはなれなかった。また、けなす資格もない。
 ホースを伸ばし、リールで巻き取る。途中で引っかかり、伸ばすところからやりなおす。

 『花って、すげえな』

 キクモドキが水をたたえて光っている。白い花弁に、葉の先に。名前を知られなくても、誇らしげに咲いていた。
「花が……すごい……」
 小さな花が森本を笑わせた。一時的にでも悲しみから救った。
 激しい身震いがした。
 何だろう。この、地面の下に無数の種があって、一斉に発芽するみたいな感覚は。ひとつひとつは小さい芽なのに、淡い黄緑の絨毯に押し上げられて、走れと言われているような感じは。むずむずして、じっとしてなどいられない。
 大急ぎでホースを巻いた。他の園芸用具も全部持って、用具倉庫に駆け込む。
 花屋のアルバイトがあったはずだ。どんなアルバイトがあるのか新田に訊いた。花屋での接客があるが、自宅の近くではないから無理だと言っていた。
 店の所在地も知らない。アルバイトの数には限りがあるので、もう締め切ってしまったかもしれない。
 それでも春樹は走った。全力で走って、進路指導室を目指した。


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