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第一話・焔 第四章・4


「アルバイト? 花屋で? 何でまた」
 大通りに面したカフェで、稲見は胸ポケットに手をやった。これで四度目だ。
 クーラーが故障して旧館の喫茶室は休業していた。喫煙可のカフェに入ったのだけれど、店外の席でしか吸えないようになっていた。夏の夕方は熱を残したままだ。外には座っていられず、稲見は煙草を我慢するしかなかった。
「勉強ばかりでは人間的に成長しません。塔崎様は花を贈られるのがお好きですし、話題作りになると思います。接客業ですから、立ち居振る舞いもよくなるかもしれません」
 周到に考えたつもりの答えだ。稲見はアイスコーヒーのストローを持ったまま、口をあんぐり開けている。
「ばかりと言えるほど勉強してるのかい? きみの商品価値は現役の高校生という点にもある。勉強をおろそかにして、退学になったら困るよ」
 何のてらいもなく商品と言う稲見の前に、進路指導室でもらった書類を置く。
「厳しい審査もありません。親の許可があって、本人が健康ならいいそうです。夕方の四時には終わりますし、五日間だけです。手荒れにも気をつけます」
「花屋の接客ねえ。遊びほうけるよりはいいけれど……」
 テーブルを指で叩く音がした。迷いがあるときの稲見の癖だ。煙草も吸えない苛立ちから、反対されるかもしれない。
 春樹はテーブルの端に手をついて、深々と頭を下げた。稲見が春樹の顔を上げさせようとする。
「きみっ。やめなさい、こんなところで」
「お願いします! ご迷惑はかけません。やってみたいんです!」
 自分でも、どうしてこれほどやりたいのかわからない。キクモドキなどと言っているのに花屋なんて、とも思う。
 いてもたってもいられなかったのだ。生徒が帰ったあとの進路指導室で説明を受ける間、花屋で働く姿を夢想していた。今もテーブルにひたいをつけんばかりにしているのに、恥ずかしさなどこれっぽっちもない。
「……ああもう! きみは本当に、もう!」
 稲見はまた胸ポケットを触り、しかめっ面でアイスコーヒーを飲んだ。
「お父さんにご報告して、書類は書いておくから。やるからには無遅刻、無欠勤、無早退。勉強もすること。いいね」
「ほんとにいいんですか! ありがとうございます!」
 書類をスーツの内におさめた稲見が、うんざりした顔を向けた。
「今の仕事は一生できるものではない。何かに挑戦するのはいいことだ。理由なくとめたりしないよ」
 言いながらレシートを取り、春樹に立てとジェスチャーで示す。同時に、周囲には聞き取れない声で言った。
「今後は塔崎様以外の方を接待することはないからね。塔崎様にもそうお返事しておいたから」
「はい」
 口では塔崎との話題作りにもなると言ったものの、感情がついてこられるわけではない。暗くなりそうな声を明るくし、下を向かずにいた。せっかく売春以外の仕事ができそうなのだ。無理にでも元気に振る舞うことに徹した。
 稲見に続いて外に出る。暑さから逃れるためか、稲見は街路樹の下で立ちどまった。
「見間違いだったら謝るけれど……昨日、喫茶室で見た子と話してなかった?」
 三浦に乱暴された男娼のことだ。あの男娼が追っていたのは稲見が運転する社用車だったのか。稲見も気にして後ろを見ていたのだろう。変に嘘をつかないほうがいい。
「話しました。あの、あの人は」
 まだ何も言っていないのに、稲見は手を横に振った。
「やめてくれ。きみのことだ、あの子に仕事をと言いたいんだろうけど、僕ではどうにもならない。あの子も専属契約ではないんだ。店の仕事に身を入れるしかないんだよ。社を通した接待より、取り分は減るけれどね」
 接待要員には二種類ある。社の仕事以外はしない専属契約の者と、売春を斡旋する風俗店に属し、社の仕事もする者だ。大怪我を負った男娼は後者だった。
「でも、あの人は接待があった日に」
「粥川がどうこうという話なら聞かないよ」
 まさか粥川の名が出るとは思わず、たじろいだ。男娼が粥川の存在を話したとしか考えられない。
「社員が騙すなんて、とんでもないよ。又貸しがあれば真っ先に疑われるのは僕らだ。冗談じゃない」
 粥川の本性を知らない稲見が怒るのは当然だ。喫茶室であれほど苛々していた理由が理解できた。
 どうする。告げ口を粥川に知られれば、新田に危険が迫る。軍鶏の目をした男に殴打されるかもしれない。
「書類が書けたら電話するよ。早く帰って勉強しなさい」
 社に向かう稲見を見る。頭の中にある天秤で、怪我をした男娼と新田とが揺れていた。


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