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第一話・焔 第四章・4
自宅マンションに着いても、入る気になれなかった。新田の安全を考えると、粥川の策略を言うことができない。
あの男娼は今夜、仕事にありつけるだろうか。どこに住んでいるのだろう。家賃は滞っていないか。
同じ仕事をしていて、自分だけがゆりかごに守られているのが恥ずかしかった。
エントランスの扉が開き、紺色のつなぎを着た男が出てきた。互いに会釈して、男が歩みをとめる。
キャップを後ろ前にした若い男を見て、春樹の口から明るい声が出た。
「成瀬さん!」
成瀬は高岡の知人で、鍵の交換や室内のリフォームをする業者だ。自殺未遂のときは大変な世話になった。笑うとすき間のある前歯も変わっていない。
「引っ越したって聞いてましたけど、ここに住んでんですか?」
「い、いいえ」
多くの人に知られてはならない部屋だ。春樹は曖昧に笑って、問い返した。
「成瀬さん、ここの鍵も扱うんですか?」
住んでいると思わせないため、成瀬についていく。六時過ぎでも空は明るい。成瀬も困らないだろう。
「ここはムリっすね。セキュリティ、ガッチガチです。時間できたから営業かけてみたんスけど」
成瀬はチラシの束を持っていた。宣伝用チラシのようだ。落胆していないのが不思議で、成瀬を仰いだ。
「あんまりがっかりしてないみたいですね」
「営業なんて、こんなもんっすから」
真っ当な仕事はこういうものなのか。成瀬は短時間で春樹の部屋を元どおりにした。優れた技術があると思うのに、その腕をもってしても、顧客の獲得は難しいらしい。地道な努力を重ねているのだ。
二十代前半に見える成瀬が頼もしく見えた。もう少し話していたくなり、何気なく切り出した。
「高岡さんの別邸、行きました」
「そうですか。気になってたんスよ。よかった」
成瀬の声には驚きが認められた。高岡め。転居は話したくせに、春樹が別邸を訪ねたことを伝えていないとは。
肝心なことを言わないにもほどがある。
「庭がきれいっすよね。あれからすぐに行ったんなら、ツツジが見頃じゃないかなあ」
訪ねたときに盛りだったツツジは、確かに日本庭園の主役をはっていた。
「ツツジ、きれいでした。シバザクラも」
駅近くの駐車場に停めたバンを開けると、成瀬はチラシを助手席に置いた。合点がいかない顔をして春樹を見る。
「シバザクラって、公園とかにも咲いてる、ちっさい花っすよね」
花に興味のない高岡が何故、と思うのだろう。立派な庭に合わない花を植えさせる男ではない、とも。無用な勘ぐりを避けるため、庭ではない場所に話題を移す。
「あの家は広いだけですよね。リビングは五十畳ですし。和室は修学旅行で寝る部屋並みだし。きょうけ……高岡さんの寝室くらいしか、普通の部屋がなくて。サンルームは見ました?」
すぐにも返事があると思っていたら、成瀬は助手席のシートに手を置いたままだった。
「玄関と庭の入り口だけしか、見てないんスよ。彰さん、親しい人も入れませんからね。避難所にしてるみたいで」
「避難所?」
「ストレスの多い仕事です。しんどいときとか、考え事したいときに寄るみたいっすよ」
好き勝手しているようでも疲れるとみえる。出来の悪い犬に手こずっているせいかもしれないけれど。
仕事が一段落して気がゆるんだのか、成瀬が警戒心の薄れた笑顔で言った。
「前の部屋、風入れたりしてますか? 鍵の調子は問題ないですか?」
言っていることがわからない。眉間にしわを寄せる春樹を前に、成瀬の声がうろたえたものになった。
「あれっ。彰さんから何も聞いてない……とか?」
「聞いてません。前の部屋って、成瀬さんがきれいにしてくれたところですよね? 引き払ったんじゃないんですか?」
失言したときの顔は、誰でも同じようなものだ。成瀬は特に隠せない性分なのだろう。頬が引きつっている。
「えーっと、そのうち、彰さんが説明するんじゃないっすかね」
車内に入ろうとした成瀬のつなぎをつかんだ。
「あの部屋は生まれてから住んでたところです。高岡さんが何かしたの?!」
成瀬が困った顔で春樹を見る。笑わないと精悍な顔つきであるため、春樹もひるみそうになった。
退くことはできない。鍵を触らせるのは、高岡が部屋を借りなければできないはずだ。
「あなたから聞いたとは言いません。部屋を借りてる人は誰ですか。誰か住んでるんですか?」
つなぎをつかまれた状態で、成瀬はキャップの上から頭をかいた。
「……彰さんが借りて、誰も住んでません。鍵だけ換えるように言われまして……すんません。知ってるとばかり」
何のために空き家を借り、隠すのだ。借りたと言えばいいではないか。
こそこそするところに悪意を感じる。犬のものは自分のものとでも言ってくれたほうがましだ。
「黙って借りるなんて! 大事な部屋なのに。十六年分の思い出があるのに……!」
成瀬がバンのスライドドアにもたれた。鼻の下をこすって、ぽつりと言う。
「大事なとこだからじゃ……ないっすかね」
春樹が口を挟む前に、駐車場のアスファルトを見て続ける。
「彰さん、躾けてる人たちのもの、大事にしますから。石ころひとつでも捨てたりしません」
粥川に切り裂かれたキキョウのハンドタオルを、高岡は成瀬に捨てるなと命じた。
ビニール袋に入れられた『変わらぬ愛』は、引っ越してからも処分していない。
だが、一枚の布とマンションの一室ではスケールが違う。調教師なら調教師らしく、鞭だけ振るっていればいい。
こんな飴は要らない。胸と胃の間から黒いモヤが広がり、肺が押しつぶされそうになる。
沈黙を破ったのは成瀬だった。
「もしかして……死のうとしました? あの血、争った跡じゃないっすよね」
高岡の血痕をきれいにしたのは成瀬だ。痴話喧嘩ではないと察しても、おかしくはない。
春樹は肯定も否定もできず、つなぎから手を放した。まだ明るい西の空を見てから、成瀬が低い声で言った。
「躾けた人に死なれてるんですよ、彰さん。二度目はないって、思ってるんじゃないですかね」
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