Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
学習机で教科書を広げても、頭の中にあるのは成瀬の言葉だった。
『今の会社経由の仕事じゃありません。一途な子で、客に本気になりまして……』
一番上の引き出しが目に入る。数分迷い、参考書の後ろから引き出しの鍵を出した。
引き出しを開けると男物のハンカチに目がとまった。胃の痛みを感じながら手にとる。分離帯で抱擁された夜、転んだ春樹の手に巻かれたものだ。返す機会はあったのに、洗わずにしまっておいた。
高岡の香りが残る白い布を握りしめ、机に顔を伏せる。
『身寄りのない子でして。彰さん、今でも墓参りに行ってんじゃないですかね』
サディストが自分の手を切った理由も、知れば単純なものだ。わが身を犠牲にする姿を見せて商品の気を散らせる。
苦痛はあっても効果抜群。痛みに耐えられれば誰でもできる、安直な方法だ。
客に本気にさせたりしないために、新田との関係は好都合だったろう。新田を大事にしろ、つらいと言えとささやけば一石二鳥。商品を気にかける調教師を演じながら、死なれるリスクを減らせる。
うまいことを考えついたものだ。高校生に体を売らせる連中の一味だけはある。
白く、なめらかな布を広げた。高岡のカフスボタンがハンカチの中心にある。輝く装身具を見ないようにして、引き出しの奥から鍵を取り出した。高岡の別邸の合鍵だ。別邸を訪れた日に返すつもりが忘れていた。
ハンカチでカフスボタンと鍵を包み、通学鞄に入れる。明日にでも高岡の自宅に行き、郵便受けに入れればいい。
急きたてられるように六畳間を出て、早々にベッドにもぐり込んだ。
実行に移したら何でもないことだった。
次の日の朝、春樹は登校前に高岡の自宅に寄った。オートロックも時間帯次第で頼りないものになる。
ジョギング帰りの住人のあとについてエントランスに入り、郵便受けに高岡の二文字を見つける。ここにハンカチを放り込めばいいだけだ。
通学鞄に手を突っ込んだとき、エレベーターが一階に着く音がした。小型犬を抱いた中年女性が出ていく。女性と犬が見えなくなるのを待っていたら、初老の男性がエントランスに入ってきた。春樹を見ながら、管理人室と書かれた部屋の鍵を開ける。丸眼鏡の奥にある目には、百パーセントの警戒心が見てとれた。
春樹は意味のない会釈をし、小走りで高岡の巣をあとにした。
下校時間を迎える少し前から雨がぱらついてきた。
駐輪場から校門に続くスロープの途中に新田がいた。傘もささずに、自転車の下のほうを覗き込んでいる。
「先輩、どうしたんですか」
こちらに笑顔を向けたものの、新田はまた自転車の下部を見る。春樹は新田の頭上に傘を掲げ、視線を追ってみた。
チェーンが切れている。中学のころ、チェーンのたるみを無視してこいで外してしまい、転倒した級友がいた。松葉杖をつくほどの怪我だった。
「大丈夫ですか! 転んだりしなかった?!」
新田が片耳をふさぐ。傘を取り上げ、春樹のほうがたくさん隠れるようにさしてくれた。
「大丈夫だ。転んでない。それにしても……気になるな」
新田の視線はふたたびチェーンにそそがれた。
「大きなたるみもないのに、急に切れるなんて初めてだ。先週注油したときには何ともなかったんだけどな」
粥川の軍鶏に似た瞳が脳裏をよぎり、前後左右に目をやった。
偶然で片づけるにはタイミングが悪すぎる。三浦の暴力に屈した男娼の言動を、粥川は気にしていた。粥川が男娼を監視していた可能性は低くない。男娼と話した春樹の姿を見られたとしたら──
おぞましい想像が春樹の歩みを遅くした。新田がブレーキを握り、傘を持つ手を伸ばした。
「入れよ。丹羽の傘じゃないか」
「傘、貸します。さして帰ってください!」
「お前はどうするんだ」
「どこかで買います!」
呼びとめる新田の声を聞きながら、ばたばたと走る。歩道に落ちる雨粒が大きい。
仕事を干された男娼と話したときと、そっくりの雨だった。
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