Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
駅ビルの一階は、通常の移動手段として電車を使う人以外に、雨から逃れたと思われる人であふれていた。春樹と同じ制服を着た生徒たちも多い。小さなコンビニで傘を買う人もいた。
春樹は呼吸を整えながら柱にもたれた。雨のしずくを払ったとき、水滴が誰かの革靴の先にかかった。
「ごめんなさ……」
水をかけてしまった相手を見た春樹から言葉が消える。
唇の端を上げて立っていたのは高岡だった。Tシャツに薄いジャケット、ジーンズという格好だ。シンプルなTシャツはつくりものでない筋肉に沿い、靴に合わせたベルトが若々しい。仕事がない日なのか、気楽さを誇示する服装だ。
「濡れたままでは風邪をひく」
「わ、わかってます」
「向こうを向け」
柱のほうを向く春樹の動きは、ぜんまい仕掛けの人形だ。棒立ちの春樹に高岡のジャケットが羽織らされる。
人は多くても様々な店から冷房の風が流れてくる。人の体温はありがたい。高岡の温もりでなければ素直に喜べると思うが、仕方がない。
「袖を通して前を閉じろ」
大きすぎて恥ずかしい。高い服だろうから悪い。借りてしまって高岡はどうするのだ。
いくらでも口実はあるのに、どれひとつ口にできない。いつもどおり言うなりになって着終えると、通学鞄を抱きしめるように抱えた。無理に笑って話題を変える。
「ありがとうございます。高岡さんは、どうしてここに?」
「成瀬から口を滑らせたと詫びる電話があった。仔犬ちゃんがふさいでいるかと思ったが、思い過ごしだったようだな」
ふさいでいるなどと言えば、部屋を借りたくらいでと言うくせに。
「高岡さんがどの部屋を借りても、僕には関係ありません」
嘲笑を含んだ声で笑われると思った。ぼそぼそ言ったため聞こえなかったのだろうか。ゆっくり振り返ってみた。
高岡はにこりともしていない。腕組みをして春樹を睨んでいる。射貫く視線が痛く、春樹は柱に背をつけて言った。
「まだ何か……?」
冴え冴えとした双眸が伏せられる。高岡は、喉の奥をクッと鳴らして笑った。
「お前にとって十六年の月日は、その程度のことか」
「……え」
「俺もとんだ無駄金を使ったものだ。部屋を取り返そうともしないとは」
見えないハンマーで頭を内側から殴られた。何だ。何なのだ、この男は。
安い犬、不出来と罵っているのはお前ではないか。今の部屋の合鍵を塔崎に渡すなと言ったのもお前だ。
愛人でも常に金を動かせはしないだろう。住まない部屋の家賃も払えと言うのか。無茶もたいがいにしろ。
「だって、ぼ、僕は」
「お前の『だって』は聞き飽きた」
くだらないものを見るように春樹を一瞥すると、高岡はポケットに親指を入れて横を向く。駐車場がある方角に歩いていきかけた高岡に、春樹は暴言の矢を放った。
「無駄なお金だって思うなら払わなきゃいいじゃないですか!! そもそも来る必要ないですよね! 僕がふさいでるか知りたいなら電話ですみます。わざわざ来ないでください! 僕は誰かと違って、本当に死んだりしませんから!!」
大声に驚く人のなかで高岡が立ちどまる。柱の前で凍りつく春樹の前に、表情を一切変えない高岡が戻ってきた。
高岡の右手が上がった次の瞬間、春樹の左頬を痛みが襲った。肉を打つ音は人々の平和を乱し、柱の周りに奇妙なスペースができる。
「死んだ者を侮辱するな」
普段と同じ声が、かえって怒りを代弁していた。春樹の喉に熱がせり上がり、視界が惨めにゆらいだ。
「ごめんなさい……!」
醜い涙を見られたくない。通学鞄で顔を覆い、ひたすら下を向いた。
鞄に春樹のものではない指がかかる。高岡が涙を拭ってくれるのだと思い、素直に鞄を下ろした。
ばか犬の世話に飽きた調教師の顔には、人を寄せつけない冷笑が浮かんでいた。
「今回はお前が正しい。来る必要などなかった。たまのオフに負け犬の醜態を見るとは、運がない」
肋骨の真ん中に、剣にも似た氷柱が突き刺さった。
口をぱくぱくさせる春樹を一度も振り返ることなく、規則的な靴音が去っていった。
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