Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
水曜の放課後、春樹はバス停にいた。学校の最寄り駅から数駅分離れたところだ。ロータリー状のバスターミナルで塾に行くためのバスを待つ間、ベンチに座って通学鞄を開けた。
分数のプリントを見なおす。まるで頭に入らない。プリントを戻したとき、底板の端にある白い布に指が触れた。
返すことができなかった高岡のハンカチが、鞄の中で追いやられて丸まっている。
しわを伸ばしながら嗅いでみた。高岡の香りがする。
ジャケットは昨日のうちにクリーニングに出した。煙草とオー何とかの香りがして、置いておくとこんがらがるからだ。
人を傷つける痛みは心をさいなんだ。昨夜、クリニックで処方された安定剤を初めて飲んだ。精神がおかしいと認めるようで飲まずにいた薬に頼った。
薬に慣れない体は容易に眠りの渦に引き込まれ、遅刻寸前まで起きられなかった。今もぼうっとしている。
何かが震えている。携帯電話の振動だと認識して、半眼のまま電話機を開いた。
「春樹? 今、いいか? もう塾に着いたか?」
新田からの着信だとわからずに通話ボタンを押したようだ。春樹はかぶりを振り、目をこすった。
「いいよ。バスを待ってるとこ」
「眠そうな声だな。学食で声かけてもぼんやりしてたし、体調が悪いのか?」
「え……今日、声かけてくれた……?」
「かけたじゃないか。この間、みんながいるのに手を握ったりしたから怒ったのかと思って、すぐに離れたけど」
新田の声に気づかないほど頭に霞がかかっていたのか。電話機の向こうから駅員のアナウンスが聞こえる。
駅。駅ビルの柱。高岡を卑怯な方法で攻撃してしまった。最悪の方法で。
「春樹……? 大丈夫なのか?」
しっかりしろ。訊かなくてはならないことがある。白昼夢につかまっているときではない。
「大丈夫。大丈夫だよ。修一はどこにいるの」
「家に一番近い駅。さっき降りたんだけど、電車は混むな」
春樹は一度、電話機を手で覆った。どう切り出そうか考え、最小限の言葉で訊いた。
「自転車、修理に出した?」
新田の「ああ」に短いメロディがかぶさる。列車が発車するときに流れる音楽だ。
「チェーン切れた理由、わかった……?」
「古くなってた。寿命だそうだ」
定期的に油をさしているパーツが古くなってもわからないものなのだろうか。新田は自転車マニアではない。専門家に見せたなら、悪戯の痕跡を見逃すことはないだろう。春樹は胸を撫で下ろし、他愛ないことを話して電話を切った。
(よかった。粥川の仕業じゃないんだ)
三浦に心酔していても、粥川には粥川の生活がある。不必要に危険を冒して人生を捨てたりしないはずだ。
腕時計に目を落としたとき、春樹の横にスーツ姿の男が腰かけた。
「丹羽春樹さんですね」
会社員──営業マンに見えなくもないけれど、どこかの組織に属している感じがしない。
ビジネスバッグを膝に乗せた男は、事務的に微笑んで名刺を差し出してきた。
「今枝(いまえだ)と申します。塔崎様の弁護士です。少しお時間をいただけませんか」
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