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第一話・焔 第四章・4
七月初めの水曜は蒸し暑かった。塾から一番近いバス停に灯りはなく、少し離れた街灯に虫が集まっている。
春樹は携帯電話を開き、バックライトでバスの時刻を確認した。この時間帯には一時間に二本しかないようだ。近所から通う生徒が多く、公共交通機関を利用するのは春樹だけだった。
次のバスまで十五分はある。ネクタイをゆるめて通学鞄から数枚のプリントを出した。分数の問題が印刷されている。三分の一も解けなかったことが情けなく、ため息と共に鞄にしまった。
週に一度通うことになった学習塾では宿題が出ない。学校の授業をサボらず新聞を読めとだけ言われた。小学生用のプリントを解く生徒は春樹だけではなく、安心した反面、拍子抜けしたのは否めない。
携帯電話が長く振動した。春樹は通話ボタンを押し、浮き立つ声ではいと言った。
「今日から塾だったよな。どうだった?」
新田の声はいつもと同じで優しい。校内ですれ違ったときに、今日初めて塾に行くと話してあった。覚えていてくれたことが嬉しくて頬がゆるむ。
「ちょっと変わってる。通ってみないとわからないけど」
「変わってる?」
「厳しくないんだ。プリントだけで大丈夫なのかな」
分数のプリントとは言えない。小学校のおさらいをしなければならないのは他でもない、自分の怠慢のためだ。
「多くの教材を使わないってことか。それは悪くないと思うな」
「えっ。そ、そう?」
ああ、という明るい声が耳に響く。溌剌としてあたたかい声だ。
「結局は学校の授業が中心だと思う。色々な人が考えて作られた教科書とプログラムだ。まじめに勉強すれば相応の学力はつくようになってると新聞にも書いてあった」
「新聞……そうだ。前に言ってたよね。一面の下にあるコラムのこと。本質が何とかって。クラスの補習で使うんでしょ? 本質が何だっけ」
一緒に新聞を読んだ日に新田に教えてもらった。あれきり思い出せず、訊きなおすこともしていない。
しばらく無言が続いたあと、プッと吹き出すような音がした。新田に笑われたと思うと顔から火が出そうだ。
「わ、忘れたから教えてもらいたくて。塾で新聞を読むように言われたんだ」
「ごめん。コラムは本質を考えるきっかけなんだ。補習ではコラムに題名をつけて遊ぶ。テーマを理解していないと変な題名になるけど、段々それらしい題名をつけられるようになる。結構面白いぞ」
補習のことを話すとき、新田の声は弾む。これまでは勉強を楽しむ新田が遠い存在に思えたけれど、今は違う。
今朝は字面を追うだけだったコラムを、しっかり読んでみたくなった。題名を考えて新田に聞いてもらいたい。
こんなことで高揚するのは初めてだ。『考えたい』と思ったこと自体、初めてだった。
「ありがとう、修一。なんかすごく新聞読みたくなった」
おだやかな声で新田が笑った。春樹も笑い、ふたり一緒に笑い声が終わる。
「……春樹。今度、ゆっくり話がしたい」
「うん」
「気をつけて帰れよ……愛してる」
春樹が息をのむと同時に電話が切れた。口にするには深呼吸が必要な言葉を、もう一度聞くことができるなんて。
携帯電話が冷たくなっても、胸のともし火は消えなかった。
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