Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
「……高岡さん」
背中の手がとまる。
「笙子さんのことをあれと呼ぶことを悪く言ったから……怒ったんですか……?」
「────いや。違う」
長い間と声音が嘘だと告げていた。易々と見破られる嘘をつくことに不安を覚える。高岡はラグマットに尻を下ろした。
「鏡を見せられた気がして……叩き壊したくなっただけだ」
「かがみ……?」
前髪をかき上げながら高岡がカウチソファにもたれる。片方の膝を立て、膝に腕を乗せてうつむいて話す。
「物のように呼ばれることに意味はない。どう呼ばれようが、呼ばれた側の価値は変わらない。それを知っている者は人を物呼ばわりすることに抵抗がなくなる。呼ぶべきではない対象まで……呼ぶようになる」
穴のあくほど高岡を凝視した。春樹の視線に気づいた高岡がこちらを向く。
「笙子さんの価値が変わらないとわかってるなら、そんなふうに言わないでください」
春樹は肘をついて上半身を起こした。
「高岡さんは人を躾けることが仕事です。仕事の癖が出ただけです。呼ばれる人の価値が変わらないなら、呼ぶ人の価値も変わりません。自分を責めないでください」
狼の目がまた揺れた。胸ぐらをつかんだときと同じ揺れは、分離帯で春樹を抱きしめたときのものだ。
ばかみたいに高岡を見すぎていた。身構えようともしない春樹に高岡の手が伸びてくる。
「た……か……!」
二の腕をつかまれて背中を支えられる。脚の間に高岡の膝が入り、仰向けにさせられた。
「やめ──う! う……っ」
目を閉じろとも言わない、性急なキスだった。煙草の辛味を残す舌と唇に口腔を凌辱される。血が変なところに集まりそうになり、高岡の胸や腕を押した。
「ん、あっ」
脚を開いてしまい、羞恥の血が顔にのぼった。高岡の片手が春樹の髪をすき、もう一方の手が腰を抱く。
キスは激しさを増し、湿った音をたてて唇が離れた。一秒も経たないうちに戻り、髪に触れていた手が春樹のうなじを支える。高岡の手を焼きそうなほどに首から上が熱い。もう一度うっとりする動作で唇が離れ、耳の下にキスを受けた。
「い、いやだ……いや、です」
言葉の意味とは正反対に、甘えた声になってしまった。顔をがっしりつかまれ、強引なキスが再開する。大人の男が乗っているのに体が飛んでいきそうになり、ラグマットをつかんだ。
背骨に沿って熱い痺れが伝わる。焔が這ってくるときの危険な予兆だ。
両手で高岡の肩を押しやろうとした。抗議の意味で爪を立てるつもりが、キスしたまましがみつく格好になった。
「んうっ、んん!」
深いところで舌が絡む。離れる直前に唇ごと吸われ、痺れが目の奥まで広がった。
「高岡……さ……」
鋭さのある唇が、ふたたび触れた。高岡の肩から二の腕、筋肉のラインがわかる腕へと春樹の指が落ちていく。
ラグマットに到着する寸前、すくわれるようにして手をとられた。一瞬だけ握られて春樹の目が見開く。
立ち上がって服と髪を整える高岡は、支柱の曲がった補助テーブルを見た。
「テーブルは弁償する。平日の夜に届くよう手配する。塾の曜日は決まったか」
「……いいです。投げたのは僕だから。曜日はまだです」
笑みこそないが、切れ長の目には人を見下す感じがありありと出ていた。
「買ってやると言っている。素直に受け取っておけ」
野蛮な行為をした高岡の贖罪だ。要らないと押し通すこともない。春樹はソファにすがって立ち上がり、子どもっぽい要望を口にした。却下されても首を絞められて酸素不足になったためだと思えばいい。
「それなら……普通のテーブルがいいです。ガラスの板や金属の脚じゃない、木でできたのが」
高岡が眉をひそめる。小ばかにしたような表情が浮かび、いつもの高岡らしくなった。
「この部屋に合わないだろう」
「合わなくてもいいです。一本脚のテーブルは使いにくいし、ガラスや金属は落ち着きません」
灰色で動物みたいな目が、眩しいものを見るように室内を眺める。廊下に進もうとした高岡が振り返った。
「この部屋が嫌いか」
予想していなかった問いに言葉がつまる。
「正直に答えろ。暮らしにくいか」
「暮らしにくいというより、くつろげません。でも──」
指導室で新田の涙を拭った日の翌日から、ここの景色は一変した。色彩に欠けると感じたリビングも、時刻や天候によって様々な影を見せてくれる。大きな窓から射し込む陽光や風を楽しめるようになっていた。
「最近はそうでもなくなってきました」
視線を外した高岡が玄関に向かう。今度は立ちどまらずに淡々と言った。
「自己管理には環境も重要だ。過ごしやすくすることは悪くない。塾の日に重ならないよう届けさせる」
春樹が揃えておいた靴を当然のように履く。玄関ドアが開き、緊張したような声がした。
「笙子のことでは迷惑をかけた」
問い返す前にドアが閉まる。靴音が遠くなっていく。
今のは謝罪だ。高岡が謝った。謝るところが違うようにも思うけれど、商品に謝った。冷たくて傲慢な狂犬が。
ドアを開けて廊下に顔を出すと、エレベーターの前に立つ高岡と目が合った。
「テーブル、楽しみにしてます!」
高岡は苦々しげに空中を睨み、腰に手を当ててため息をついた。
「大声を出すな。早く寝ろ」
春樹は返事もそこそこにドアを閉める。高岡の謝罪など最初で最後かもしれない。頭の中で繰り返し再生させた。
次のページへ