Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
五十畳のリビングでくつろげる才能が欲しい。もしくは、くつろがせてくれる住人が。
高岡は春樹にコップ一杯の水を出して奥に行ったきり出てこない。自由に観ていいと言われたのでテレビを観ても、意識は廊下の向こうに引っぱられる。ふすまを開け閉めするような音や、ヒノキの香りがするような気もする。
巨大な窓にはロールスクリーンが下ろされていた。空調は快適でも、居心地がよくないのは変わらない。
好きな番組も楽しめず、テレビを消す。テレビの下にある棚に目がとまった。洋書の一部がずれている。
ソファから離れてテレビに近づく。途中で高岡がいる奥を見やり、棚にある本を探った。
外国の風景を写した写真集とペーパーバックとの間に、背表紙が日本語の本がある。草花図鑑のポケット判だった。学校の図書室にあるものと似ている。折られているところが二箇所あるため、開いてみた。
ひとつはキキョウで、もうひとつはシバザクラのページだ。
シバザクラのページに釘付けになった。最初にある花言葉『臆病な心』にアンダーラインが引かれ、余白に癖のない字で書き込みがされていた。
燃える恋
新田に教えられたシバザクラの花言葉を、この家の庭で、夜のシバザクラの前で言ったことがある。
背すじを伸ばして草花図鑑を閉じた。視線がちっとも定まらない。
シバザクラを一緒に見た夜、仔犬のデータは多いほどいいと高岡は言っていた。『燃える恋』もデータにすぎない。
仔犬を知るデータのひとつがシバザクラで、シバザクラのページが開きやすくなっているのは、データを書くときに押し広げたからに違いない。
足音がしたため、草花の本が一番下になるように洋書を広げた。新しいシャツに着替えた高岡がスーツの前を閉じ、髪を手櫛ですきながらリビングに入ってくる。
「和室に布団を敷いておいた。じきに風呂も沸く。世話は鵜飼さんに頼んだ。俺は明け方に戻り、登校前にお前を自宅に送り届ける。黙って出ていこうなどと考えるな。鵜飼さんにもご迷惑がかかる。質問はあるか」
ふるふると首を横に振る。仕事を抜けてきているサディストに喧嘩を売る気はない。
春樹の後ろを横切ったところで高岡が振り向いた。シャツの襟を整えながら付け足しのように言う。
「お前が住んでいた部屋だが、今すぐ取り返せとは言わん。自立できるまで待ってやる。寝首を掻いてやりたいような男が借りていても我慢しろ」
今日は外国語みたいな日本語を聞かされてばかりいる。春樹は他意なく返した。
「そんなの無理です」
煙草を取り出した高岡が、嘲笑のなかの嘲笑、といった笑みをみせた。
「コンマ一秒考えずに白旗か。怠けることが好きなお前らしいな」
「そうじゃなくて……高岡さんは、寝首を掻いてやりたい人じゃないから」
高岡の手からライターが落下した。鈍い音が邸内に響く。
商品の前で手を滑らせたことが恥ずかしいのだろう。高岡は咳払いをして拾った。
「何故、寝首を掻きたいと思わない」
この男がT大に受かったか疑わしくなるのは、こういうときだ。自分自身を理解していない。人の観察に忙しくて自分のことは後まわしになるのだろうか。春樹は高岡の顔をまじまじと見て答えた。
「高岡さんは色々なものを奪うけど、大切なものは取り上げない。そういう人だからです」
吹き抜け天井と壁の境にエアコンの送風口がある。春樹が座る床に到達する風は心地よくても、高い背丈で受ける風は冷たすぎるのかもしれない。高岡はひたいに手を当て、そのまま前髪をかき上げた。
「……お前は」一度目を伏せ、怒ったような顔で春樹を見る。
「死ぬまで誰にでも尻尾を振る気のようだな」
高岡が廊下の角を曲がる。数分と経たないうちに車のエンジン音がした。木製ガレージの扉も門扉も電動のためか、ほとんど音がしない。
外車の排気音がしなくなると、春樹は通学鞄を開けた。高岡のハンカチをきれいにたたみ、別邸の鍵とカフスボタンを乗せて補助テーブルに置く。
散らかした本を片づけていたらシバザクラのページに触れてしまい、なけなしの決意があっさり崩れた。
補助テーブルに走り寄ってカフスボタンだけを取り、握りしめる。
シバザクラのページを、高岡は読んだのだ。おそらく、何度も。
燃える恋という四文字を書いた程度では、持ち上げただけで開くような癖はつかない。
(やめろ。これがあいつのやりかたなんだ)
胸の前に持ってきた手を開く。高岡の瞳にも似た装身具のきらめきを見る。
目を閉じて、銀白色のカフスボタンに口づけた。
(やめろ! 僕には修一がいる。やめろ────!)
正しいことを告げる声をよそに、腹のずっと奥のほうから、焔に似た熱が這い上がってきた。
< 第五章・1へ続く >
【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第5章・1のupまでお待ち下さい。
二度の入院で更新が停滞してしまい、申し訳ありません。
第5章は最終章です。前半ジワジワ、後半バタバタの予感です。
もう1回くらい瀬田・森本の凸凹コンビが出てくるかも?
第5章のどこかで同衾シーンがあるかもです。お相手は誰だ!
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